九州、其の一 (西・北九州編)

九州、其の一


(西・北九州編)


旅行場所:西・北九州・福塩線

期間:1981年 1月 5日~ 1月 9日

行程:1月5日の夜、三ノ宮駅のホームで寝台特急あかつきを待つ。いよいよ本格的な単独の長距離旅行が始まる訳で、ブルートレインの寝台車に乗るのは初めてであり、ワクワクしながら列車の来るのを待っていた。そして電気機関車に牽引された、ブルートレインのあかつきがホームに入って来た。夜の9時過ぎに出発、この先途中の博多で下車する予定だ。以前電車3段式の寝台車に乗った事があったけど、客車の2段式は初めてである。2段式ともなるとゆったりしている。

1月6日の早朝、既に関門トンネルを潜って九州に上陸した寝台特急あかつきは6時を廻って博多駅に到着、列車はこれより先へ進むけど、自分はここで下車して、筑肥線のホームへと移動した。この時点では筑肥線の始発駅は博多であるが、いずれ福岡市交通局の地下鉄が開通すると同時に、姪浜駅で地下鉄と相互乗り入れの直通運転で、博多駅の地下鉄ホームに来るので、筑肥線の博多-姪浜間はその時点で廃線になる訳でその前に乗っておこうとスケジュールを組んだのであった。それまでは非電化単線でディーゼルカーの運行だが、乗り入れ開始後は筑肥線の姪浜-東唐津間・唐津線の東唐津-唐津間は電化され電車が走る。交流電化の九州にあって地下鉄との乗り入れの為、この区間だけは直流電化される。

まず博多を6時半より少し前に出発して、姪浜迄の廃線予定区間を行く。車両は珍しい客室・郵便・荷物の部屋を1両の中に持つディーゼルカーだった。一旦列車から降りて駅名の書かれた看板と一緒に写るべく、近くに居た人にシャッターを押して貰う様に頼み、愛用のポケットカメラで写真を撮ってもらった。駅舎は昔ながらの造りの感じだった。それから筑肥線を西へ進むべく移動を再開、途中の唐津市の手前では線路の北側に虹ノ松原が広がっている。急行平戸で伊万里に着いたら10時過ぎだった。

松浦線(現松浦鉄道)の踏破で一旦始発駅の有田に移動、昼前だったので昼食を取り、12時半より少し早く有田を出て、伊万里迄の往復後は海岸線をぐるりと周るルートで、約3時間足らずの行程で3時過ぎに佐世保に到着した。佐世保から15分で早岐に着いて、諫早迄の大村線に乗り換えて南下し諫早には5時を廻ったところで到着。ここから喜々津迄は列車が時間的に合うのがなく、距離も遠く無い為タクシーで移動した。喜々津から浦上までは長崎本線の旧ルートを進む。ここは非電化のままで本線ルートは単線でも電化されており扱いに差がある。夕方5時半を廻ると西九州でも外は暗いものである。ディーゼルカーに揺られて約40分少々で浦上駅に到着。駅で写真を撮って改札を出るとタクシーで宿泊先のホテルへ向かった。

1月7日の朝はゆっくり目で朝食を取り、長崎駅に向かった。L特急かもめで一旦長崎県を出て佐賀県の鳥栖へ移動し、長崎本線を踏破する訳である。8時40分を廻って出発し、乗る事2時間少々で鳥栖に着き写真を撮ったら、20分程で折り返しといっても重複するのは肥前山口迄である。L特急かもめで肥前山口に着いたのは12時前だった。ここからは佐世保線に乗換えでL特急みどりに乗って佐世保迄は約1時間、途中の早岐では進行方向が逆向きになって、椅子の向きを換える事に。反対向きで乗るのは何か落ち着かないものである。1時を廻って佐世保に着いたらすぐに昼食を取った。

駅に戻ると改札に並ぶ行列がギッシリと出来ていた。まだ旅慣れてないので、発車の時刻が近くならないと、改札が始まらないのが分からなかったのである。普段いつでも電車が来るのが当たり前の生活をしている者には、1時間に1本列車が来るか来ないかとか、列車の来ない時間は改札を閉じるというのは想像出来ない事である。結局、急行弓張に乗り込んだ時には満席で、肥前山口迄の約1時間少々は立ちっ放しであった。3時を廻ったところで肥前山口に着いて、長崎県内の路線を完乗し次の列車が来る迄50分程待つ。4時過ぎに来た列車に乗る事10分少々で久保田に着いた。ここは唐津線の乗換駅である。4時半過ぎに久保田を出発、ディーゼルカーの車内は長椅子の座席だが、トイレの前だけ進行方向になった座席があいていたので、そこに座り西唐津迄揺られる事、1時間少々で到着した。この先は呼子迄延伸する予定で一部着工されているが、開通がいつになるかは不明である。

西唐津駅では折り返し時間は10分程。佐賀行きの普通列車で唐津線を引き返し、分岐点の久保田で降りずにそのまま列車の終着となる佐賀迄乗車した。佐賀駅に着いたのは夜の7時半になろうかという訳で外はもう暗くなっていた。駅弁を買って佐賀から瀬高迄の佐賀線(廃線)の列車に乗り、出発を待つ間に夜食代わりの駅弁で腹ごしらえだ。明るい時間帯なら佐賀線名物の昇降式可動橋が見える筈だが、外は真っ暗で景色もろくに見えない。それでも先へ進むのはこの夜の泊まり先が、大学の必修科目で同じクラスの友人の実家なのである。年末に九州旅行の話をしたら、泊まっていけばと声を掛けてくれたので、御言葉に甘えさせて貰った訳だ。40分程で瀬高に着いて鹿児島本線の電車は10分後に来た。そこから30分少々南下して荒尾には9時半前に着いたら駅前には友人が迎えに来てくれていた。予め移動計画を立てており友人には到着時刻を連絡済である。駅から家へここまでの行程などを話しながら歩いて、友人の実家へ着いて家族の方と挨拶を済ませ、暫く旅行の話をした後、翌朝早く出発の為、寝床に就かせて貰った。

1月8日の朝は6時には起きていた。7時過ぎの列車で移動するので、友人を早起きに付き合わせてしまい、申し訳ないがそれでも駅まで見送りに付いて来てくれて有り難いと思う。ホームで待っていると電気機関車に牽引された旧型の客車による列車が来た。鹿児島本線は電化区間だが、電車・ディーゼルカー・客車と車両の種類は混在している。50分程で久留米に着いたら電車に乗り換えて原田へ移動。ここからは筑豊本線に乗り換えである。赤い車体の客車をディーゼル機関車が牽引する列車で、9時過ぎに出発して非電化ながら複線の路線を東へ向かう。原田から若松に伸びた路線の大半は炭鉱のあった筑豊地区を走り、沿線にはかつての石炭産業の名残が在る。

11時近くに途中の中間で下車して、先に香月線の証明写真を撮り後続の列車に乗って12時過ぎに終点の若松に到着。30分の折り返し待ちの間に写真と昼食を済ませて1時過ぎには中間に戻った。1時半を廻って出発した香月線の列車は10分程で香月に到着した。僅か5分の折り返し待ちの後、2時前に発車した列車は中間から筑豊本線に直通しているので、中間で降りずにその先の折尾で下車した。原田から一旦分岐した筑豊本線は折尾で再び接続して、路線は鹿児島本線の上を跨いで終点の若松を目指している。さてこれで今回の九州旅行は一先ずこの辺で、予定の路線を踏破出来たが、やり出したからにはもう何れは続いて残りの路線も乗るしかない訳だ。

2時半頃に折尾を出発した後は、在来の鹿児島本線の列車を乗り継いで、門司からは山陽本線の関門トンネルを潜って、九州とはサヨナラして本州側の下関に3時過ぎに着いた。やっと本州に戻ったという実感が湧いてきた。その後は列車を乗り継いで、新下関に移動して新幹線に乗り換える。4時をそこそこ廻ってこだまが来たので乗り込み、この日の泊まり先である広島へと向かった。広島には6時よりも早く着いたが空は日が沈んでいた。駅前の電停に進み広島電鉄の路面電車に乗って、この日泊まる親戚の家に向かった。

1月9日早々に起きて朝食を食べて出発の用意を済ませ、広島駅に向かった。8時過ぎの新幹線に乗って途中の福山で降りて、1路線だけ、寄り道して帰るのである。40分程で高架化された福山駅に着いて2階の福塩線のホームに移動、旧型の電車でクリーム色と濃い目の青のツートンカラー(関東では横須賀色と言う。)の4両編成が途中の府中駅迄走っている。そこから先の塩町へは非電化の為、デーゼルカーに乗り換える事になる。9時を20分近く廻る頃に電車は府中へ向けて出発、高架区間は束の間で早々に地平に降りて徐々に北西に向きを変える。府中までは昔国鉄に吸収される前の電鉄会社が開業していて、電化されて駅間の距離も短い。府中から先は国鉄になってから開通したので非電化で駅間の距離も長い。約50分で府中に到着、20分程の待ち合わせで三次行きのディーゼルカーに乗り、山間の区間をひたすら各駅停車で進む事、約1時間半で塩町に着いた。運行上列車の発着駅の三次に比べれば小さな駅である。

1時間程、折り返しを待つ間に昼食を済ませて待っていると、1時過ぎに府中行きのディーゼル列車が来た。そうして元来た線路を南東に引き返す。2時40分台に府中で福山行きの電車に乗り換えて、終着福山には3時半少し前に着いた。それから新幹線ホームへ上がり、4時前のひかりに乗って新神戸には5時半頃に着いてとりあえず、単独では初の九州旅行は無事に終わった。一人での長距離旅行をこなせたので、次の旅行が楽しみである。

さて今度の旅行はどこへ行こうか。


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