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山田理沙のカナダ看護活動日誌。

山田理沙のカナダ看護活動日誌。

カナダでナースになるまでの経緯。

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どうして「カナダでナース」なのか?
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よく、尋ねられる質問なので、この場をお借りして説明させていただきます。アホらしい程単純ですが、「あの頃私は若かった」というノリで勘弁していただければ幸いです。。。

その1:夢はオーストラリアでナース。

ことの始まりは、看護学生時代の研修旅行。オーストラリアはシドニーとゴールドコースト1週間の旅。生まれて初めての海外旅行。青い空、青い海、肉、肉、肉、たまにシーフード。コアラ園でコアラを抱っこ、カンガルー園でカンガルーに餌付け。すっかり、典型的な観光客になりきっていた私たち。でも、そこは「研修旅行」、医療施設見学の一つや二つ入れておかねば、ということだったのだろう。我々は老人ホームに連れて行かれた。

当時、学校で長期の休み中は、学校と同系列の老人ホームでバイトしていた私。そのバイト先の老人ホームが知らず知らず、私の基準老人ホームとなっていたのだが、輝くばかりの青い空、白い雲の下で見学したホームは、その私の基準とかけ離れていた。入居者の皆さん、個室またはセミプライベートの広い部屋で、自宅のような空間を持って生活している。基準が「6人部屋、団体行動」だった私にはとても新鮮に映った。ホームの看護師といえば、白衣パンツにエプロンが当然だと思っていた私に、カジュアルスーツを着て、名札の「RN」を見なければ看護師とは分からない職員はもっと新鮮だった。

若く、世間を知らない私は、すぐに現地採用、服部まこ系通訳のお姉さんに、オーストラリアの看護師の待遇やら、ホームの近所、海の近くに聳える白亜のマンションの値段などを訊いてもらい、「将来はオーストラリアでナースになるわ」と、心に誓った。

その2:夢はアメリカでナース。

学校を卒業後、働き出してしばらくお金を貯めて、週に2回最寄りの英会話学校に通い始めた。夕方の授業で、日勤深夜の間に出席することも多かったが、自分が好きなことをしているため、あまり苦にならなかった。英会話学校に通いながら、オーストラリアで看護師になる方法を模索したが、当時はインターネットの普及も乏しく、オーストラリアの医療や看護についてあまり知られていなかったのか、見つける資料は合衆国のものばかり。しかも、資料によると、合衆国の看護師資格は世界で通用しやすく、日本を始め多くの国がアメリカの看護を先例にしている=アメリカの看護は進んでいる、ということだった。最先端の看護を学べば、オーストラリアに行ってもやっていけるだろう、と、その時からアメリカの看護大学入学が私の目標に変わった。

一旦思い込むと、あっという間に頭の中に別の世界を築き上げてしまう私。アメリカでナースになったら、ハワイのノースショアで観光客から離れてのんびり暮らし、ラーメンや吉牛、回転寿しが恋しくなったら月に一度ワイキキに車を飛ばす生活を、すごい勢いで夢見始める。

その3:・・・なのに、何故かカナダでナース。

そうするうちに、カナダ人の元夫と恋に落ち、結婚。合衆国(ハワイ)又はオーストラリアに行く夢は捨てきれないものの、「カナダもアメリカも一緒だよ」と言う元夫を信じて、極寒の地(?)に来てしまう。来てしまってから、アメリカとカナダは看護どころか、医療制度まで全然違うということを知り、愕然としたのも後の祭り。

いろいろあって、元夫と別れた後、一応アメリカと同じ北米だし、どうせ帰ることになっても、こちらの看護を経験してから帰れば、帰国後、何かに生かせるかも・・・と、外国人向けリフレッシャーコースを受講中に、資格試験に合格。市内の大学病院で働き出したら、待遇、労働量、看護師の地位、仕事の内容、教育に関する職場や政府の態度、看護協会の影響力など、どれをとっても思っていたよりずっと良い。日本にいたら考えもしなかった看護学士の取得も比較的簡単だし、修士への道、NPへの道も開けている。日本では看護学生時代に物理を4回落とし、英語は万年赤点、保健師学校にも落ちている私が、修士+NPプログラムに入れる環境である(ま、卒業できるかどうかは別の問題として・・・)。35を過ぎても、学校に通って好きなことをして、日本社会の柵から解き放たれっぱなしで、これを天国と言わずに何を天国と言うか・・・状態だが、将来、日本に帰らざるをえなくなったとき、母国で看護師として機能できるかどうか、甚だ怪しく、非常に恐ろしい。


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