2006/04/06(木)20:50
日本の小学校での英語について
日頃から、日本での「英語英語」胎教に「英語」海外に行けばとりあえずしゃべれるようになるだろう語学留学して「英語」という風潮に 批判的な私です。今日の石原都知事の発言には大きく賛同しました。普段はあまり都知事の発言に共感できることは少ないのですが、さすが元小説家、良いことをおっしゃいました。抜粋東京都の石原慎太郎知事は6日、公立大学「首都大学東京」の入学式で、小学校段階での英語必修化について、「全くナンセンス。若い者の日本の語学力はどんどん低下している」と述べ、日本人の基盤として国語力向上の必要性を説いた。母国語の基礎がない人間が他国の言語を操れたとしても、それは表面的なただの言葉としてであり、感情や表現が言葉を使ってでできるというわけではありません。言語はあくまで人と人の最低限のコミュニケーションの手段であり、英語ができる=賢いわけではありません。ヨーロッパの人が他国語が話せるということを引き合いに出す人がありますが、地理的、歴史的に日本の状況とは全く違う環境にあります。逆にアメリカで、移民を除いて他の言葉を流暢にしゃべれる人はあまり居ません、必要性がないからです。日本人が日本語をきちんと話せないのに、たとえ英語が話せたとして、いったいどうだと言うのでしょう、日本人であることを捨て、外国人(英語人)になりたいということですか?グローバル社会の一員として(小泉さんが好きそうな言い回しだなぁ)英語が話せれば、本当に便利で対等にやり取りができるという利点はもちろんあります。親が英語コンプレックスを持っていて、「海外で自分が恥かしい思いをした」から子供には絶対英語!と思ってるケースも多いようです。そんなことでコンプレックスを感じる必要があるのでしょうか?母国語をきちんと話せて、美しいものを美しいといろいろな言葉で表現できる方がよっぽど素晴らしいと思います。まあ、実際に私が大学4年のとき、面接に行ったある企業で言われたことがあります。「うちの会社にはね、帰国子女はごろごろいるし、英語屋はいらないんだよ。英語ができるということは 全く売りにはならないね。」翻訳や通訳をする時、日本語がきちんとできないとしたら、翻訳は本当に可能ですか?小説やエッセイを翻訳する人は、英語ではもちろん日本語で自らも小説が書けるくらいの技量がないことには、読む人の心に訴える訳は絶対にできないと思います。英語ができるからって 何ぼのもんじゃ?日本語もあやふやな幼い子供に英語を教えたところで どうなりますか。思考の基礎は母国語にあると思います。英語英語と とち狂って前が見えない日本の動き、本当にこれからが心配です。私は美しい日本語が好きです。日本語のあやや日本語での言葉の遊びが好きです。英語では表現できない言葉が日本語にはたくさんあります。季節を愛でる言葉、風の音、空の色を表現する日本語が本当にたくさんあります。アメリカに来て20年になりますが、ますます日本語に対する想いが深くなっていきます。もう一度言わせてください、英語ができたからって 何ぼのもんですか。