リヴァー・フェニックス
今回は、14年前に亡くなった。私の1番大好きな俳優リヴァー・フェニックスの話になります。少し長くなりますが、是非読んでみてください。ハリウッドに彗星の如く現れて、突然去ってしまったリバー、自然を愛し、家族を愛し、音楽を愛した永遠の青春スターの人生をたどってみました。--------------------------------------------------------------------------------□幼年時代本 名: リヴァー・ジュード・ボトム生年月日: 1970年8月23日出生地 : アメリカ、オレゴン州マドラス1968年母アーリンは夫と仕事を捨てて既成の社会から脱出し、ニューヨークからロスに向かった。サンタモニカでヒッチハイクしていた彼女は後にリヴァーの父となるジョン(彼も又妻と娘を捨て放浪の身であった)と出会い結婚。彼らは所謂ヒッピ-で、「ラブ&ピース」をポリシーに仲間と一緒に放浪の旅をしながら自分の生き方を模索していた。1970年8月彼らの仲間達の見守る中、リヴァーは生まれた。リヴァー誕生後も仲間達とコミューンを渡り歩く暮らしを続けていたが、1972年突然両親は「神のお告げ」を受けドラッグを常用するヒッピースタイルの生活から離れコロラド州の宗教カルト集団「チルドレン・オブ・ゴッド」に入信。そこで教祖より「フェニックス」というバイブル・ネームを授かりコロニー生活に入る。この宗教はフリー・セックス奨励し、幼児の頃から性の儀式に参加させる教儀があり、後に社会問題化したそうだ。リヴァーは「僕のロスト・バージンは4歳の時。コロニーの子供達にとって性は生活の一部だった。でも10歳から14歳までは完全にセリバシー(性からの隔離生活)を保った」とインタビューで語ったそうだがこれをジョークと受け止めた人も多かった。1973年に妹レイン誕生、翌年にはフェニックス一家はチルドレン・オブ・ゴッドの伝道の旅に出て中南米を転々とした。その間に弟リーフ、妹リバティが生まれる。この間の生活は過酷なサバイバルライフで電気・ガス・水道・トイレすらない状況。援助の一切無い中でフェニックス一家は「信念」のみで生きていた。生活費はリヴァー達子供がストリート・パフォーマンスをして稼いでいたそうだ。特に5歳の時にリヴァーは両親にギターをクリスマスのプレゼントとして貰っていて、彼の体より大きなギターを弾きこなす彼は、街行く人々の注目を集めた。この苦しい時代を幼い兄弟達は苦とせず「自分達も楽しんで、人にも喜んでもらえるパフォーマンスの素晴らしさを知った貴重な体験」だったと語っている。やがて教祖に幻滅した両親はチルドレン・オブ・ゴッドを脱会しベネズエラから「密航」してアメリカに戻った。妹サマーが誕生し父は庭師として働き始める。人生の真理を追い求める両親は次ぎに「ビーガン」として生きる事にした。ビーガンとは食事、生活必需品をはじめ身の回りの全てのものから「動物性、化学物質のもの」を排除する超ナチュラルな生き方だった。当時からリバーは「強者が弱者の命を奪う事」を拒絶し蜂蜜やミルクさえ口にするのは止めようと家族に勧める程だったそうだ。当然両親は既存の学校教育も拒否しホームスクーリングを行った。しかしリバーは祖父母の説得により一度だけ小学校に通った事があるそうだが、一般的に育った子供達に囲まれて「カルチャーショック」を受け、いじめられて1学期で退学してしまった。リヴァーが9歳の時、父の体調が悪化し母が家計を支える様になる。(因みにこの年ジョンとアーリンはこの年正式に役所に「フェニックス」を姓として届け出た。)地元のタレント・コンテストに出たリヴァーとレインに母は期待をかけ、彼女の学生時代の友人であったペニー・マーシャル監督(当時はTV番組の主演女優だった)に子供を売り込む手紙を出す。「ハリウッドにおいでの際はお立ち寄り下さい」というパラマウントからの儀礼的な返事を「神の啓示」と感じたフェニックス一家は早速ハリウッドへ向かった。だがハリウッドはそんなに甘くなくアーリンはオーディションの情報を得る為にNBCTVに就職、その間子供達は再びストリート・パフォーマンスをして生活費を稼いだ。そんなある日フェニックスは子役タレントエージェントの目に留まり多くのCMに出演、フェニックス一家に大金が舞い込んだ。しかしリバーはCMの仕事に納得出来ず、役者になるために再びオーディションめぐりを始めた。数々のTVドラマの仕事をこなすようになり、15歳のときにジョー・ダンテ監督「エクスプロラーズ」で映画デビューを果たす。ここで初めて同世代の友達(イーサン・ホーク)を持つことになった。翌年「スタンド・バイ・ミー」に出演、15歳にしてハリウッドの次世代をになう新しい感性を持つアイドル・スターとなった。この映画の出演中、リバーは思春期の男の子達がする冒険やイタズラを次々と実体験し、のびのびと過ごした。彼の人気が高まると母アーリンは「PHOENIX IN FLIGHT PRODUCTIONS」を設立しリヴァーのエージェントとなる。□俳優としての過程1986年にはハリソン・フォードと共演した「モスキート・コースト」、ここで彼はマーサ・プリンプトンと恋に落ちた。「ジミー」、「リトル・ニキータ」と映画は順調、ティーン雑誌の表紙は今やリヴァー一色の勢い。この間にリーフ、レイン、サマーの弟妹達も次々に映画に出演した。「旅立ちの時」でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。繊細さと憂いを持った美青年に成長したリヴァーの人気は益々沸騰。数々の映画出演のオファーが殺到する中、アイドル路線を拒否し、「殺したい程アイ・ラブ・ユー」の脇役に出演。この時キアヌ・リーブスと知り合う。その後キアヌと共に「マイ・プライベート・アイダホ」で汚れ役に挑戦、見事アイドルから繊細な個性派スターへと成長していった。20を迎えた彼はインディペンデント映画志向を打ち出す一方、厳格なベジタリアン・ライフを実践し、自然・家族・音楽を愛した。妹レインと一緒にロック・バンド「ALEKA'S ATTIC」の活動に熱中し、環境保護や動物愛護運動に積極的に参加。「反ドラッグ」発言をし、芸能界で「もっともクリーン・リビングなスター」として広く認知され、愛された。しかし楽しみで始めたロック・バンド活動がきっかけで「ドラッグ」に染まってしまう。(マスコミなどに対するストレスからという説もある)「マイ・プライベート・アイダホ」以後着実に個性派スターへと成長しているように見えたリバーは破滅に向かって加速度的に進んでいたのだ。それは元恋人で死の直前まで良き理解者だった女優マーサ・プリンプトンにも、最後の恋人サマンサ・マシスにも止める事が出来なかったのだ。□突然の死1993年10月31日ハロウィンの夜、突然リバー・フェニックスは逝ってしまった。あまりにも急な出来事にこのニュースを真実として受け止められない人も多かったのではないか。この悲報はあっと言う間に世界中を駆け巡った。友人であるジョニー・デップがロック・スターと共同経営し、若手の芸能人が多数行き来する超おしゃれなクラブ「THE VIPER ROOM」での出来事だった。「早く来て!」と必死に救急車を呼ぶリヴァーの弟リーフの電話の声が何度もオンエアされた。ロサンゼルス検死局から「急性多重薬物中毒による死亡」と報告され。ベジタリアンで自然を愛し、「反ドラッグ」発言もしていたあのリヴァーが「ドラッグ中毒」で死んでしまったと言う事実を信じられないファン達は、「棺におさめられたリヴァーの写真」(これは盗み撮りされて高額て売られたものだそうだ)、L.A.タイムスに掲載された母ハートからのファンに向けての声明文、11月25日にパラマウント・スタジオで行なわれた追悼式等様々な出来事を経てやっと「彼の死」を現実として受け入れた。翌年に人気ロックバンドR.E.M.のリリースしたCD「MONSTER」には"FOR RIVER"と献辞が捧げられ、リヴァーが出演するはずだった映画「インタビュー・ウイズ・バンパイア」にも"IN MEMORY OF RIVER PHOENIX,1970-1993"の献辞がスクリーンに映し出された。タイタニックのディカプリオ役もリヴァーにオファーする予定という噂もあった。23歳という若さでの衝撃的なリバーの死は映画界にとって大きなダメージと言っていい。--------------------------------------------------------------------------------おもな出演作品一覧リヴァーの出演映画をピックアップ1985年 ・エクスプロラーズ1986年・スタンド・バイ・ミー ・モスキート ・コースト1988年・ジミー (さよならのキスもしてくれない)・リトル・ニキータ・旅立ちの朝1989年・インディ・ジョーンズ(最後の聖戦)1990年・殺したい程アイ・ラブ・ユー1991年・恋のドッグファイト・マイ・プライベート・アイダホ1992年・スニーカーズ1993年・愛と呼ばれるもの1994年・サイレントレガシーリヴァーフェニックス