深夜ぶろぐ便

2022/02/24(木)17:33

真夜中の文珍

1977年ごろだったろうか、MBSヤングタウンが夜の1時に終わり、 たしか、そのあと2時から3時までやってうた深夜放送、帯でたしか 月曜から金曜までだったろう・・。 最終回を録音したカセットテープがあったはずだったんだが、見当たらない。 ぼくは、当時、一番の人気であった桂三枝とその兄弟弟子、ザ・パンダ(残飯ではない) の中で一番、好きだったのが桂文珍だった、彼の話は面白く、自分のことを語ってくれて 篠山鳳鳴高校という有名な進学校から、三流の大阪産業大学にしかいけななかった、そんな話を していた。 番組の内容は覚えているのは、アシスタントの女の子と風呂にはいるのだ。 まあ、実際は音声にエコーをかけて、効果音をつけただけとおもうが、 若い僕らは想像して楽しむだけ、そこで、文珍さんがあーとかうーとか そそそんな、とか、話すだけであった。 この放送は、あまり続かなかった。 アリスがバカ売れして、ほかのアーチストも売りたいというヤングジャパンという ところが、その帯を全部奪ってしまい、文珍を下ろし ヤンジャのアーチストがでるようになった、 同時期か、KBS京都のズバリくというラジオ放送の火曜日に出ていて そちらを聞き始めた。でも、なんせ、KBSの電波は飛びにくく、盆地なので 神戸から聞いていたが、聞きにくかった。 ズバリくは、鶴瓶もでていたが、ハイヤング京都【ハイやん】になり継続されたが 鶴瓶は降ろされた、その最後で鶴瓶は反旗を振りかざし、最終回は リスナーの名前をひたすら言うだけ、 「山科のまるまるくん、どうもありがとう」 真夜中の文珍の最終回は、最後は、ひたすら、激怒し 「チキショー、チキショーとおもひながら生きてきました。世の中みんなチクショーです」 と、泣きながら、BGMはデモ隊の音だったか、衝撃的だったのを思い出す。 ぼくらのオアシスといえば、深夜放送ラジオだった。 学校へ行ってもちゅがくの時は屈辱感と挫折感の繰り返し、勉強もできない スポーツもできない、ぶさいくな、ちぅう学生だった。 高校にいっても、いじめられ、勉強をして、なんとか見返そうと思った。 夜の21時過ぎから夜中の3時かへたすると4時まで 勉強をしながら深夜放送を聞くのだ。その放送はほとんど生放送で 「ああ、この放送のひとたちは夜中ぼくらのために起きていて仕事してる」 と、思ったものだ。 「まん丸眼鏡にイガグリ頭、働く農協青年は、滝廉太郎こと桂文珍」は ザパンダの中でもあまり売れておらず、どことなく地味で でも、話はとても面白く、知的であり、好きだった。 文珍さんは、その後、全国区で売れて、テレビにでまくり スターになった。 僕がラジオで好きだった人はたいていそうなった。 そして、文珍さんはテレビの仕事を減らして、落語に打ち込み 落語ファンはかなりいる、らしい。 #真夜中の文珍 #文珍

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