祈り
子供を持つというのは、とても重い事だ。守る者が出来る、という事。彼らはか弱く、自分では自分の身をまだ守れない小さな存在だ。だから守ってやる必要がある。こういった気持ちになったのは、生まれて初めてだ。瞳の為ならば内臓の一個や二個いつでも喜んで差し出すし、命丸ごとくれてやろうと思う。あの子にならば、命をくれても惜しくない。日々あらゆる事が起こる。瞳は好奇心旺盛に生まれついたようで、とにかく落ち着いてはいない。まだ立って歩いてはいないが伝い歩きまでは出来てしまう。詳しくは書かないが、アクシデントがありこの2日程ほぼ不眠不休で瞳に付ききりであった。(瞳に関しては現在至って元気なので心配はいらない)例え眠れる時間があったとしても、どの道寝付けなかったと思う。アクシデントがあると、そのアクシデントの大きさにもよるがほとほと自分に自信をなくしてしまう。本当に落ち込んだ時はへとへとに疲れて帰ってくると分かっている夫には泣きつくのが嫌で、ひとりひっそり泣く日もある。小さなしかし確かな命の鍵を握っている事の重さが肩にずしりと圧し掛かり、その重さに時に押しつぶされそうになる日もある。時に、恐怖も感じる。いつかこの子はどうにかなってしまうのではないか?そんな風に。そのプレッシャーが辛い日もある。しかしそういう日に限ってひとりだったりするものだ。うちはほぼ母子家庭状態の家庭なので、自分が時に父親の役もしなければならない。良く育児雑誌に乗っている他所の赤ちゃんのいる家庭の一日のスケジュールを載せたものには「入浴はパパ」とか「寝かしつけはパパ」などと書かれている場合が多いのだが、それはそういう家庭のケースを選んで載せているんじゃないだろうか。が確実に、我が家のような家庭もごまんとあるのだ。家族揃って毎日ご飯を食べるとか、子供が毎日夫とお風呂に入るとかそういう暮らしは毎日夫の帰宅が遅く、顔をひと目も見ず別々に朝を迎える日の珍しくないうちではあり得ない、想像もつかない暮らしである。外に出て夜遅くまで働く男が孤独なら、家を守る女もまた孤独だ。夫の帰宅も遅く実家も頼れない、近所付き合いもないそんな母親が山程いる。我々のような者がどうしようもない事に対するどうしようもなく感じてしまう心細さ、に震える夜は一体その胸の内を誰に話せば良いのだろう。同じ立場のいわゆる「ママ友達」というのは一見「分かち合えそうな」感じがするが、感じがする、だけである。付き合いがぽつぽつ出来て初めて分かった事だが、決して「親友」にはなり得ない。何故なら、母親同士という以外には確かな共通項がないからだ。愚痴は言えても、そこには遠慮もある、魂が通い合うような付き合いにはなり得ない。幸いこれは日記なので、何でも書ける。別に誰にあてて書いている訳でもないまさに独白が出来る。こんな夜はここがあって良かったな、と思う。母親になって結構強くなったか以前より激しく落ち込む事が減ったが、それでもまだたまには、こんな日もある。立ち直るまでには時間がかかりそうだが、こんな時はやり過ごすしかないだろう。体を低くかがめるようにして。ぴゅーぴゅーと冷たい風が容赦なく吹いてくる。「さあ、身をかがめろ。やり過ごせ。」精神不安定が深まれば不眠症が本格復活してしまいそうなので、危惧している。また逆も言える。眠れない事は、精神の不安定を呼ぶ。いざという時は心療内科に行く事も視野に入れるべきだろう。きっと大丈夫だろうし、気合で大丈夫にすべき、というかしたいが。何だかんだで最も頼りはいつでも「自分自身」夫は今日も休日出勤で、頑張っている。彼もまた孤独だ。どの人もどの人も頑張っている。どの人も一杯一杯だ。家々の小さな窓の光の分、生活がある。「報われて欲しい」そう思う。