出典:十八史略
春秋時代、中原から南に離れた 呉 (ご) と 越 ( えつ ) の2国の争いが舞台です。
呉王 闔閭 ( こうりょ ) は、 伍子胥 ( ごししょ ) や 孫武 ( そんぶ ) などの家臣の力を得て、 楚 ( そ ) を討つなど、勢力を伸ばしました。そして、南方の越の王 允常 ( いんじょう ) が死に、子の 勾践 ( こうせん ) が後を継ぐと、混乱に乗じようと越に攻め込みます。
しかし、越軍は精強で破ることはできず、逆に越の名臣 范蠡 ( はんれい ) の奇策にあって敗退し、子の 夫差 ( ふさ ) に「越王勾践が、おまえの父を殺したのを忘れるなよ。」と言い残して死んでしまいました。
呉王となった夫差は、父を殺された恨みを忘れまいと、夜寝るときは 薪 ( たきぎ ) の上に 臥 ( ふ ) し( 臥薪 ( がしん ) )、自室に出入りする者に「越王勾践が、おまえの父を殺したのを忘れるな。」と叫ばせて、富国強兵に励んだのです。
3年後、呉の復興ぶりに焦った越王勾践が呉に攻め込みましたが、復讐の怨念と化した呉王夫差は越軍を大いに破り、ついに 会稽山 ( かいけいざん ) というところで越軍を包囲しました。勾践は、国を捨てて呉王の奴隷になるという屈辱的な条件で講和する羽目になったのです。
今度は越王の番です。勾践は、毎日 胆 ( きも ) を 嘗 ( な ) めて( 嘗胆 ( しょうたん ) )その苦い味とともに会稽の恥を思い出し、呉王に屈辱的な扱いを受けながらも国力充実に心を砕きました。
12年後、呉王夫差が 黄池 ( こうち ) で諸侯と会し、国を留守にした隙を狙って、ついに越軍は行動を起こし、呉都を急襲したのです。これを機に両国の力関係は逆転し、ついに呉は滅んでしまいました。