みなさまこんにちはv(゚▽^*)ノ
今日もThe lamb worldへようこそ
おいで下さいました。
ありがとうございます。
ところでみなさまは、"自由"とは、
どんなものと考えますか?
何ににも支配、校則や法律、憲法にしばられないこと?
また、神様のことばに耳を傾けないで、自分の心のままにいきること?
いいえ、神様はそういっておられません。
そして、私も聖書を読んでいて、そう思いました。
本当の自由とは、
“自分を由とする”のではなく、
“自分を由として下さる方がおられて”
そして初めて私たちは、自由になれるのです。
その方とは、言うまでもなく神様なのですが、
でも、私たちは、神様に従うことで、逆に
神様の命令に縛られてしまうと思わされてしまうのですが。。
でも、本当にそうなのでしょうか?
神様に従わない生活。。
それは、“罪”に捕らわれる生活。
「らむさんやいっ、
何を言う!(`゚д-´)ノ☆pasi」
と思われる方もいらっしゃるのだろうとお察しします(*μ_μ)
特に、自由気ままに放蕩しているような
私にはこのことを受け止めやすいのですが、
もういつも頑張って、何も愚痴をも言わず、
親や、会社の上司に従っている方には、
こんなにも頑張っているのに
これが、「罪に捕らわれている生活」と言うの?
と思われると思います。
私は、本当に放蕩娘なものですから、
お気持ちを完全に察することはできませんが、
一つ例えを用いてお話しようと思います。
聖書の教えている、神様の仰る罪とは、
本当に私たちの考える“罪”の基準より
遥かに高く厳しいです(v_v。)
そのため
イエスさまの救いが確かに感じるなぁ~σ(’o’)oO(V)
と私は感じるのですが。。
そう!
私たちの心とは、泥水の入ったコップに
例えられることがあります。
普段の私たちの心とは、下のほうに土が沈んでいる状態。
表面上には、とても綺麗でコップの中の泥は静かです。
しかし、少しそのコップに振動をやると、ひと溜まりなく
その泥は、コップ全体に充満します。
私の心も本当に全くその通りやなぁっ(´゚o゚`)
と心からそれを認めずにはおられません。
本当に勇気のいることですが。。
ちょっとしたことで、私の心は動揺して、
どうしても感情的になってしまいます。
ここで、私は
“なんて私は醜いのだろう。。”
と思います。
本当に、聖書のいう“罪”とは厳しいょ。。
心の中で
「な。なんなのこの人…」って思うだけでそれだけで罪です。
「なぁんであの人だけ・・・?(´゚o゚`)」と妬む心も罪です。
いっぱい並べようと思えば並べられるのですが、
あまり書くとつらくなってしまうp(´⌒`。q)
ので。。
でも、こういう思いに捕らわれてしまっていると、
そのことに心が捕らわれ身動きできない状態で、
つらいですよねぇ。。?p(´⌒`。q)
この心の束縛から解き放とうとして下さる方が、
神様であり、イエス様なのです。
本当に神様による、罪ある私たちには言いつけは厳しくて、
自分の肉はそれに従えなくて、どこに自由があるのだろう?
と思われるかと思います。
それは、神様はすでにご存知です。
だから、イエス様(=キリスト)をこの世に送って下さいました。
しかし、私は考えます。
本当に、私たちに罪があるから、
原罪“神様に背こうとする力”があるから、
困難であり、不自由に感じるのだと。。。
でも、神様と真剣に向き合う時、
本当の"自由"を体験するのだと思います。
“罪”の心からの解放。
本当にそこには、溢れるばかりの平安と
喜び、愛に満ちているのだと感じています。
あらゆる自由が待っているのだと信じます。
だってネ(。ゝω・。)
本来私たちは、神様の御栄光を表すためにいるのだもの。
これほどの喜びってないはずです。(^_-)-☆
そして、私たちには、
その道を選ぶか選ばないかの選択も、
私たちの“自由意思”にお任せになられています。
それほどに神様は私たちを
愛して下さっており、信頼して下さっている
とそう感じますし、実際にそうだと信じます。(v_v。)
うまく言えなくて、ごめんなさいp(´⌒`。q)
そして、このように書いている私でさえ、
まだまだ
“それを受け入れないでおこう。。Σ(`゚д-´)ノ ”
という強い力が働いております。
それは、信仰とは
一時の感情からくるものではなく
理性からくるものだからというのも
数ある中の1つの理由であるのだと思います。
いのちのパン
すべての人は、罪を犯したので神からの栄誉を
うけることができず、
ただ神の恵みにより、キリスト.イエスによる
贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。
ローマ3章23~24節
本当にそうやなぁ~(v_v。)と私が思わされる
そんな御言葉です。。。