2005/04/13(水)01:12
“THE VERY BEST OF LUCIA POPP” [PART 1]
表記は、2枚組のCD のタイトル(EMI CLASSICS)。
昨年発売されたときに買ったものであるが、このところ、出張時に持参することが多い。
先週も、そうであった。
電車を乗り継いで、新幹線だけでも往復約6時間の日帰り出張となると、車中で本(たとえば『セーラームーン大図解』や『和泉式部日記』、『平家物語』など)や、自分が書きかけの論文(たとえば「味噌煮込みウドンとシャチホコと天むすの形状に関するフラクタル幾何学的分析、及び、それに基づく名古屋人の歴史感覚に関する一愚考(その65)」)を読んでいるだけでは疲れる。
そこで、音楽を聴くことにしている。
仕事はしない(この点は、会社にいても、同様であるが)。
さて、この『ベリー・ベスト』。
2枚組で合計約2時間30分(総トラック数34)あり、一度に書ききれないと思う。
その意味で表題に“[PART1]”と記した次第。CD自体に付けられていたわけではない。
『ルサルカ』~「白銀の月」 [シュテファン・ゾルテス指揮/ミュンヘン放送響(1988年)]
冒頭に、この曲をもってくるとは、なんとも心憎い。
このアリアは、リサイタルの最後に使ったとしても良いな、と思わせる。
実は、この曲は、同じ音源にて別のCDでも持っているのであるが、何度聴いても良い。
『エフゲニー・オネーギン』~「手紙の場」 [ゾルテス/ミュンヘン放送響(1988年)]
この、タチヤーナのアリアも、今調べてみると、別のCDに同じ音源のものを持っていることが判った。
だから、聴いていたのは確実なのだが、印象に残っていなかった。
今回は、なんという曲であるかを知らずに聴いて、なかなか良いなと思った。
上記した別のCDを聴いた際には、作曲者名を先にインプットしてから聴いてしまったようだ(私は、あまりチャイコフスキーは好きではない)。
音楽を、前もって作者名で選別してしまうこと(先入観を持ってから聴くこと)は、いけないのだな。
音楽に限らず、芸術のすべて、さらには、思想や信条等に関しても言えることだが。
『カルミナ・ブラーナ』 [デ・ブルゴス/ニューフィルハーモニア管(1966年)]
『ソルヴェイグの歌』 [マリナー/アカデミー(1983年)]
これらの曲を、ポップの歌で聴くのは、このCDで初めて。
カルミナ・ブラーナは、他の演奏でいくつか聴いたことがあるのだが、なんとなく、よく判らない音楽であるという印象を持っていた。
今回、このデ・ブルゴス盤を聴いて(正確には、ルチア・ポップの歌で聴いて)、清純な感じの曲なのだな、と初めて思った。合唱が、少年合唱団であることの効果も大きいか。
ソルヴェイグの歌は、ポップの落ち着いた声が、とても良い。
40歳を過ぎる頃からのルチア・ポップの低音の、なんと豊かなことだろう。
マーラー 交響曲 第4番 ~ 第4楽章
リヒャルト・シュトラウス 『4つの最後の歌』
いずれも、クラウス・テンシュテット指揮/ロンドン・フィル(1982/1983年)。
これらの曲も、別のCDで持っていて、ポップの声は以前から堪能しているが、何度聴いても良い。
結局、まとめると、2枚組CDの内の1枚目に関しては、カルミナ・ブラーナとソルヴェイグ以外は、自分が既に持っているディスクに収録されている曲ばかりであったということになる。
さて、それで、損をした、という気になったか?
いいや、そんなことは、全く感じなかった。
ルチア・ポップのものなら、どれだけあっても良いのであった。
ただし、今のところ、まだそのようなことはないが、
買ったCD(や本)が、既に持っているものであった(!)なんてことが起こったら、
自分のボケの進行に呆れることになるだろうな。