2005/05/08(日)00:58
メディア・リテラシー
「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力をさす。また、そのような力の獲得をめざす取り組みもメディア・リテラシーという」
source メディア・リテラシーの世界
学術的な言葉の定義だけあって、ちょっと意味が分かりにくいかな。「社会的文脈でクリティカルに」なんて言葉を使われてもピンときませんね。
簡単に言ってしまえば、「メディア・リテラシーとはメディアから与えられた情報を疑いながら、正確に受け取ることができる能力。またそのような状態になるようにいろいろ働きかけること」であるといえます。
つまり、「メディア・リテラシー」という言葉が内包する主張は、メディア(ここで言うメディアとはテレビ、新聞、ラジオなどのマス・メディアをさす)から発信される情報には、いろいろな種類のものがあり、すべてのものを受動的に受け取るのではなく、ある程度能動的に、こちらが取捨選択をして受け取っていかねばならないということです。
今回、こんな言葉を題材にしたのにはわけがあります。最近の「JR福知山線脱線事故」の報道を見ていて、結構偏った報道がなされているな。と思ったからです。
参考
脱線事故をJR西日本バッシングのネタにするマスコミ
確かにJR西日本の安全対策は不十分でした。事故直後にボウリング大会やゴルフコンペをしていた行為は非常識です。また、国営時代から引きずっている官僚体質もこの問題の根っこにはあるのだと思います。
ですが、本当にJR西日本は悪者なのでしょうか。別に擁護をしているわけではありません。参考にしたブログにも書いてありましたが、「遺族の怒声の報道」、「不謹慎なJR西日本職員たちの行動の行動」というコンボにみんながやられているだけなのではないのでしょうか。
怒り、泣き叫ぶ遺族、「(ボウリング大会など不謹慎なことをして)申し訳ありませんでした」と謝るJRの重役、この2つの映像が連続で放映されると、見ているこちらも怒りがこみ上げてくるのは、人間ならばしょうがないことです。
しかし、その映像はテレビ局が編集したものであり、私たちにそのような効果をもたらすために仕立て上げられたものだとしたらどうでしょう。
筑紫哲也が好きな「ジャーナリズム」という言葉は、「マスコミはいろいろなこと(特に政府の動き)を批判的に(クリティカルに)考察し、なるべく改変することのないように情報を伝える」ことの言いかえなんだろうと思いますが、批判的であることは度を過ぎると「偏見」にもなりかねません。
何回もいいますが、今回の事件において、JR西日本は100%悪かったということは間違いないでしょう。過密なダイヤ、怠慢に対する厳しい日勤教育など、事故を引き起こすいろいろな要素を、JR西日本ははらんでいました。
しかし、今回の事故の報道は、批判的であろうとするマスコミの態度が少し極端すぎる気がする。また、「正義―悪」の図式を作ろうとして、JR西日本を「悪」にしたのはいいが、そのぶんマスコミが「正義」でなくてはならず、ちょと正義感を振りかざしすぎな面もある。そして、JR西日本の「悪」の面を強調するためにJR西日本の「正義」の面は黙殺されてしまうのでしょう。
ちなみに、事故直後に事故原因についてテレビで我が物顔で語っていた「専門家」とやらの発言も、電車オタク(通称テッチャン)に言わせれば、間違いだらけであるということです。
参考
無知は犯罪~尼崎事故を見て思ったこと
以上のことからも、お分かりのように、私たちのメディア環境は健全なものであるとは言い難いです。とはいえ、このメディア環境は私たちがどうこうできるものではないので、そうなればこちら側(情報を受け取る側)のメディア・リテラシーを確立するしか手段がないというのが事実です。
テレビ、ラジオ、新聞から毎日のように垂れ流される情報から、自分に有用なものを選び取り、また摂取した情報を上手に咀嚼(かみくだく)して、正しく自分の血肉にしていくことが、これからの私たちにとって大事なことなのではないでしょうか。
メディア・リテラシーとは、メディアの問題ではなく、受け取る側の問題なのです。