2005/08/30(火)01:22
お・ま・え・は・ア・ホ・か?(横山ホットブラザーズ風)
横山ホットブラザーズなんて、いまどきのヤング(死語?)は知らないのかな。
でも、「おまえはアホか」としゃべっているように「のこぎり」を使って芸をする3人組のおっさんたちといえば、
ある程度の人には分かってもらえるのだろうか。
最近は、だいぶ下火になってはきたが、
第3次お笑いブームと呼ばれる時期なので、
彼らの雄姿を知っておられる方も多いだろう。
まあ、そんなことはどうでもいいのだが。
話は変わるが、今日変わった光景を目にした。
車で家に帰る途中、ふと隣を併走している車に目をやると、
いい若いお兄さん(同い年ぐらいか?)が4人乗っていた。
並んで信号で止まったので、ちょっとその車のほうを注視してみると、
なんと運転手も含め4人全員が各々自分の携帯を操作しているではないか。
別に驚くべきことではないのかも知れないが、
私にとっては不思議な光景に見えて仕方がなかった。
だって、車という仕切られた空間に4人のいい年した若者が乗っていて、
それぞれが自分の携帯の操作に夢中で、会話がないなんてありえないんじゃない?
何か、現代社会の病理を垣間見た気がした。
ちょっと「現代社会の病理」は言い過ぎかもしれないが、
私は常々、こんな風に携帯を使用する行為に疑問を感じている。
たまに目にする、喫茶店で向かい合って座る二人(特に女性が多いね)が、
一人一人自分の携帯に夢中で、会話をしない状況。
私は、こんな状況を見ると首を傾げたくなる。
まあ、これは時代遅れの男の戯言なのだろうが、
こういう状況を見ると「携帯電話」という自分たちの便利さのために開発した機器に、
逆に束縛されているようで、かわいそうに思えてくる。
確かに、技術というものは上に挙げたような性質を持つものである(話がでかくなるが)。
自分たちのために発明した電気、自動車、テレビなどは、
いつの間にか、「便利なもの」から「なくてはならないもの」になり、
最後には「当たり前にあるもの」になってしまう。
これは、ある種の技術への依存であり、
極論してしまえば、自分たちの開発した技術への中毒症状とも言える。
携帯電話も、今ではこの中毒症状を引き起こすものへと成長してしまった感があるが、
幸い(?)私には限られた友人しか存在せず、
メールというものも頻繁には来ないので、
「携帯電話中毒」いわば「*セルフォン・ホリック」にはならずにすんでいる。
(*カタカナで言うとかっこいいかな?と思って使った造語【gauguinオリジナル】)
これはこれで寂しいが、
やはり人前では携帯は使わないように気にしている。
メールであろうが、通話であろうが、
携帯は元をただせばコミュニケーションツールなのであり、
人と対面しているときに、その携帯を使うということは、
対面している人をないがしろにして、
携帯電話の向こうにいる見えない相手とコミュニケーションをとっていることになる。
これはやはり失礼だと私は思う。
今の人々はその辺のコンセンサス(合意)ができているので、
「私も携帯を使うので、あなたも使っていいよ」という暗黙の了解があるみたいだ。
しかし、やはり面前にいる生身の人を無視して(了解していても)、
対面していない人とコミュニケーションをとるのは、
人間としてやらないほうがいい行為だと思う。
別にこれはひがみではない。
私がそういう状況にないから、うらやましく思い攻撃しているわけではない。
(もしかしたら、無意識的にそう思っているのかもしれないが)
携帯電話では表情は伝わらないし、
文字には感情をこめることはできない。
そこんとこをちゃんと理解して使用しないと、
今日私が見た光景のように、
男が4人、無言で携帯電話を見つめているような状況が生まれてしまう。
これは、寂しいではないか。
そんな状況を見たとき、私はいつも心の中でこうつぶやく。
「お・ま・え・は・ア・ホ・か?」