2007/04/13(金)01:43
大人になれない僕らの 強がりを一つきいてくれ
「金色のガッシュベル!」の連載がそろそろ終わるという話がある。
漫画それ自体は、小学生も読んでいるくらいなので、幼稚な部類に分類されるのだろうなと思われる。だから、好きだと言うのが少し恥ずかしい。
けれども、わたしにとっては思い入れの深い作品で、能力的には「弱い」設定の魔物でも、色々な工夫をして戦いに勝ったり、均等でない条件下でも戦おうとする意思を見せたりするところが良いと思っている。
某板には、これを知力戦と表現なさった人がいた。
偶然や状況を味方につけることが上手である(単に都合の良い後付の展開?)というだけのようにも見えるので、知力戦と言うのが適切かどうかは分からないが、要は同じ点が気に入っているということなので、そういう人がいて良かったと思う。
わたしは、高校三年生のときに、未だに付き合いのある、やさしい友人に貸してもらってこの漫画を読んだわけであるが、登場人物同士の適度にぬるい交流が心を癒してくれた。人間が本を持ち呪文をとなえないと、魔物は魔法を使うことが出来ないという設定によって、「協力」の妙が効果的に表されている。
オープニングテーマだった「かさぶた」を聞いていると、大人になることを拒否していた(今も拒否し続けている…(汗))自分にとっては、「ガッシュ」の世界は、恥ずかしいけれども心地良かったのだなと改めて感じる。
この漫画の良さは、全体の雰囲気を構成している、ぬるさとやさしさと馬鹿馬鹿しさだと思う。友情や何らかのテーマを声高に主張するわけでもなく、清麿は何の必然性も無く天才少年という設定で、本が燃えれば魔物は魔界に帰るだけで緊迫感があまり無い。それを揶揄する向きがいるけれども、「だがそれがいい」のではないだろうか。
ぬるさ・やさしさ・馬鹿馬鹿しさは現実では不要のものと見なされる。加えて自分は、あまりぬるく物事を捉えられない性質で、それ故に誤解もあれば、見えない壁の前に無気力を感じることもある。現実はシビアなものだから、ずれが生じないという点では良いのかもしれないが、相当の実力が無いのに、ぬるく捉えられないとその内疲れてきてしまうのである。(^_^;)
少年漫画にしてはぬるく、それでいて、「面白く」しようとして低俗なギャグに走りすぎてもいない、という絶妙のバランスがわたしにとって居心地の良い世界を作り出している。雷句さんの感性が存分に発揮されている結果だと思う。
隙の無い論理展開を行えることは素晴らしいが、感性でものを書くのもまた否定されるべきことではなく、たまにそういった感性の世界に遊ぶ余裕があることこそが幸せなのではないだろうか。