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先人の知恵に学ぼう!驚くほど役に立つ「名言集」

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No1eagle

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2017年09月15日
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カテゴリ:今日の名言
核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。

  どんな理由があろうとも絶対に使ってはなりません。

   核兵器を持つこと、持とうと考えること自体が反人間的です。

 最初の核戦争地獄を生身で体験した私たちは、

  65年前のあの8月、核兵器の恐ろしさを本能的に学びました。

 核攻撃に防御の手段はなく、「報復」もあり得ません。

  もしも、3発目の核兵器が使われるならば、

   それはただちに人類の絶滅、

    地球とあらゆる生命の終焉を意味するでしょう。

     人類は生き残らねばなりません。平和に、豊かに。

              <谷口稜曄>

=================================

◆一口豆知識◆◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇広辞苑より◇◇◇◇

平和(へいわ)・・・

(1)やすらかにやわらぐこと。おだやかで変わりのないこと。
(2)戦争がなくて世が安穏であること。

=================================

※喫煙室(雑談コーナー)

「一番気の毒なのは8月9日に亡くなった人。
  自分は、その人の分まで頑張る」

「苦しみに耐えた分、
  核兵器廃絶の運動を頑張ってきた分、
   命が延びたのかもしれないね」


長崎の被爆者で自らの被爆体験をもとに核兵器廃絶を訴え続けた谷口稜
曄(すみてる)氏が8月30日に亡くなられた。
心からのご冥福をお祈り致します。

核不拡散条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米。ニューヨーク国連本部で
各国政府代表らを前に被爆体験を証言し、核兵器廃絶を訴えた。


◆2010年5月7日 ニューヨーク国連本部での講演
 http://www.asahi.com/special/plus/SEB201005080009.html

※一部、人により不快な思いをする表現が使われております。

(演説の大半は、谷口さんが準備した原稿を、通訳が英語で代読した。
【】部分は谷口さん自身が日本語で演説した)

【議長、ならびにご列席のみなさま。
 長崎の被爆者、谷口稜曄(すみてる)でございます。】

 日本の被爆者23万人と平和を愛する世界のNGOを代表して、ここで発言
するという栄誉をお与えくださいまして、ありがとうございます。

 【私は1945年8月9日、当時16歳の時、長崎の爆心地から北方1.8キロの
所を自転車で走っていて被爆しました。3000度、4000度ともいわれる強
烈な熱線と、放射線によって背後から焼かれ、次の瞬間、猛烈な爆風に
よって、自転車もろとも4メートル近く飛ばされ、道路にたたきつけられ
ました。】

 突風が過ぎ去ったので顔をあげて見ると、建物は吹き倒され、近くで
遊んでいた子供たちが、ほこりのように飛ばされていたのです。私は、
近くに大きな爆弾が落ちたと思い、このまま死んでしまうのではと、死
の恐怖に襲われました。でも、私はここで死ぬものか、死んではならな
いと、自分を励ましていたのです。しばらくして、騒ぎがおさまったの
で起き上がってみると、左の手は腕から手の先までボロ布を下げたよう
に皮膚が垂れ下がっていました。背中に手をやってみると、ヌルヌルと
焼けただれ、手に黒い物がベットリついてきました。それまで乗ってい
た自転車は、車体も車輪もアメのように曲がっていました。近くの家は
つぶれてしまい、山や家や方々から火の手が上がっていました。吹き飛
ばされた子供たちは、黒焦げになったり、無傷のままだったりの状態で
死んでいました。

 女の人が、髪は抜け、目は見えないように顔がはれふさがり、傷だら
けで苦しみもだえていました。今でも、昨日のように忘れることはでき
ません。苦しみ、助けを求めている人たちを見ながら、何もしてやれな
かったことを、今でも悔やまれてなりません。

 多くの被爆者は、黒焦げになり、水を求め死んでいきました。

 私は夢遊病者のように歩いて、近くのトンネル工場にたどり着きまし
た。女の人に頼んで、手に下がっている皮膚を切り取ってもらいました
。そして、焼け残っていたシャツを切り裂いて、機械油で手のところだ
けふいてもらいました。工場では新たな攻撃に備えて他の所に避難する
ように言われました。力をふりしぼって立ち上がろうとしましたが、立
つことも歩くことも出来ません。元気な人に背負われて山の上に運ばれ
て、木の陰の草むらに、寝かされました。周りにいる人たちは、家族に
伝えて欲しいと自分の名前と住所を言い、「水を、水を」と、水を求め
ながら死んでいきました。夜になると米軍の飛行機が機銃掃射して来ま
した。その流れ弾が私の横の岩に当たって、草むらに落ちました。

 夜中に雨がシトシト降り、木の葉から落ちるしずくをしゃぶって、一
夜過ごしました。夜が明けてみると、私の周りはみんな死んで、生きて
いる人は見当たりませんでした。そこで2晩過ごし、3日目の朝、救護隊
の人たちに救助され、27キロ離れた隣の市に送られました。病院は満員
で収容できず、小学校に収容されました。

 それから3日後、被爆して6日目、傷から血がしたたり出るようになり
、それと共に痛みがジワジワと襲ってきました。1カ月以上治療らしき治
療はなく、新聞紙を燃やした灰を油に混ぜて塗るだけでした。9月になっ
て、爆風で窓が吹き飛ばされたままの長崎市内の小学校で、大学病院が
治療をしているとのことで、送られました。そこで初めて医学的な治療
を受けました。まず輸血でした。でも、私の血管に輸血の血液が入って
いかないのです。内臓がおかされていたのでしょう。貧血が激しくて、
焼けた肉が腐り始めました。腐った物がドブドブと、体内から流れ、身
体の下にたまるのです。身体の下にはボロ布を敷き、それに体内から流
れ出る汚物をためては、1日に何回も捨てなければなりませんでした。

 その当時、やけどやけがをした被爆者の身体に、うじ虫がわいて、傷
の肉を食べていました。私には1年過ぎてから、うじ虫がわきました。う
じ虫が傷口をかじるのがたまらなく痛いのです。

 この写真は約半年後「1946年1月31日」に撮影されたものです。

 私は身動き一つできず、腹ばいのままで、痛みと苦しみの中で「殺し
てくれ!」と叫んでいました。誰一人として、私が生きられると予想す
る人はいませんでした。医者や看護婦さんが、毎朝来ては、「今日も生
きてる、今日も生きてる」とささやいておられました。家の方では、何
時死んでも葬儀ができるよう準備していたそうです。

 身動き一つできなかったので、胸が床ずれで骨まで腐りました。いま
でも、胸は肋骨(ろっこつ)の間がえぐり取ったような深い溝になり、
肋骨の間から、心臓が動いているのが見えます。

 1年9カ月たって、ようやく動けるようになり、3年7カ月たって、全治
しないまま病院を退院しました。その後も、入退院を繰り返し、1960年
まで休みなく治療を続けてきました。1982年ごろから、ケロイドの所に
腫瘍(しゅよう)ができて手術を受けました。その後も医学的にも解明
できない、石のような硬い物が出来て手術を繰り返しています。

 あの日から半世紀が過ぎました。過去の苦しみなど忘れ去られつつあ
るように見えます。だが、私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆
肯定へと流れていくことを恐れます。私は、かつて自分をその一コマに
収めたカラーの原爆映画を見て、当時の苦痛と戦争に対する憎しみが、
自分の身体の中によみがえり、広がって来るのを覚えます。

 私はモルモットではありません。もちろん、見せ物でもありません。
でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで、
もう一度みてほしい。私は奇跡的に生き延びることができましたが、「
生きる」とは「苦しみに耐える」ことに他なりませんでした。かつて最
大38万人いた日本の被爆者はいま、23万人に減りました。私たち被爆者
は全身に原爆の呪うべきつめ跡を抱えたまま、苦しみに耐えて生きてい
ます。

 核兵器は絶滅の兵器、人間と共存できません。どんな理由があろうと
も絶対に使ってはなりません。核兵器を持つこと、持とうと考えること
自体が反人間的です。最初の核戦争地獄を生身で体験した私たちは、65
年前のあの8月、核兵器の恐ろしさを本能的に学びました。核攻撃に防御
の手段はなく、「報復」もあり得ません。もしも、3発目の核兵器が使わ
れるならば、それはただちに人類の絶滅、地球とあらゆる生命の終焉(
しゅうえん)を意味するでしょう。人類は生き残らねばなりません。平
和に、豊かに。

 【そのために、皆で最大の力を出し合って、核兵器のない世界をつく
りましょう。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たり
とも核兵器を残してはなりません。

 私は核兵器が、この世からなくなるのを、見届けなければ安心して死
んでいけません。

 長崎を最後の被爆地とするため。

 私を最後の被爆者とするため。

 核兵器廃絶の声を全世界に。

 ノーモアヒロシマ

 ノーモアナガサキ

 ノーモアヒバクシャ

 ありがとうございました。】

         ☆----------------------------------------☆

谷口稜曄

谷口稜曄(たにぐち すみてる、1929年1月26日 - 2017年8月30日)は長
崎原爆を体験した被爆者のひとり。1929年に福岡県で生まれる。

1943年、14歳で長崎市内の学校を卒業し、郵便局(内閣逓信院熊本逓信
局 本博多郵便局)で働き始める。

1945年、16歳のとき郵便局の赤い自転車に乗って郵便物を配達中に、原
爆により被爆する。

8月9日11時2分、爆心地から1.8km離れた長崎市東北郷(現在、長崎市住
吉町)で、自転車に乗って郵便物の配送中に背中と左腕に原爆による激
しい熱線を浴びる。自転車は爆風で大破し動かなくなったために、歩い
て近くにあった三菱兵器工場の女子寮(住吉寮)の前を通り、三菱重工
長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難する。そこで簡単な手当てを受
け、近くの山へ避難する。2晩過ごした後、道ノ尾駅から列車に乗り、諫
早へ行く。諫早の小学校へ運ばれるが、2日後長与へもどる。

9月中頃救護所のあった新興善小学校へ治療のためリヤカーで運ばれる。

11月、大村の海軍病院(現在、独立行政法人国立病院機構長崎医療セン
ター)へ移送され、3年7か月後やっと退院する。

1949年3月20日に退院する。しかし、その後もたびたび皮膚の移植手術等
の治療を受ける。戦後、原爆によって被害を受けた自らの体験をもとに
、核兵器廃絶のための活動を続けた。

2017年8月30日 十二指腸乳頭部がんにより長崎市で死去。享年88歳。

[略歴]

・1943年 14歳 長崎市内の学校を卒業し、郵便局(内閣逓信院熊本逓信
 局 本博多郵便局 )で働き始める。
・1945年 16歳 郵便局の赤い自転車に乗って郵便物を配達中に、原爆に
 より被爆する。
・1956年 長崎原爆被災者協議会(被災協)が発足。活動に参加する。
・1970年 原爆で焼かれた背中の映像が報道される。
・1974年8月9日 長崎市の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和の誓
 い」を読む。
・1980年7月 「核実験に抗議する長崎市民の会」が発足。代表に就任す
 る。
・2006年5月 被災協会長に就任。
・2010年5月 国連本部で行われた核拡散防止条約(NPT)再検討会議で演
 説する。
・2010年6月 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表委員に就
 任。
・2015年8月9日 被爆70周年の平和祈念式典で2度目の「平和への誓い」
 を読む。
・2017年8月30日 十二指腸乳頭部がんにより長崎市で死去。享年88歳。

        フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

谷口稜曄の本
自己啓発書のベストセラー

         ☆----------------------------------------☆

★☆「keiko通信 from NewYork」☆★

「缶詰、瓶詰、冷凍食品」

日本でクリームコーン缶詰は使ったことがあるけれど冷凍食品、缶詰は
ほとんど使いませんでした。

豆、オリーブ、ビーツ、インゲン豆、シロップ漬け果物、トマトソース
、チキンブロス・・・

驚いたのはジャガイモがスライスされた缶詰を見た時です。

缶詰は賞味期限が切れたほうが美味しいものもある、またバクテリアな
どは発見されなかったと聞きました。

しかしお抹茶の缶詰はやはり香りが薄くなっていました。

                      Keiko


■「まぐまぐ!かんたんクリック投票」メッセージより

メッセージ:今回が800回ということで、本当におめでとうございます。

何でも、新しいことをスタートすることは出来ても、それを継続するこ
との難しさは全く別物の様な気がします。

『倦まずたゆまず、努力出来る』というのは、本当に大きな才能であり
、私は一般に言う『才能のある人、賢い人』よりも、『努力し続けて結
果を出した』人を尊敬しています。

800回、名言集を継続してこられた宮口さんに、心より敬意を表します。

※シカゴで会社を経営されている山下好朗さんから久しぶりにお祝いメ
ールを頂きました。有難うございます♪感激です!
今後とも「名言集」、どうぞ宜しくお願い致します。


★ちょっと一言!

※皆さん、お元気ですか?「名言集」の宮口です。

圧倒的な現実を目の当たりにして言葉がありません。
二度と過ちを繰り返さない、二度と戦争を起こさないという願いが危機
に瀕しています。世界中のどこかで戦争が起きているという現実に目を
背けることは出来ません。平和を願うばかりです。


★皆さんのメールが何よりの励ましです。
出来る限り、お返事は差し上げますのでお気軽にメールして下さい。
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最終更新日  2017年09月15日 05時00分22秒
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