LOGOS OF LUPRIA

2005/11/25(金)23:38

コンテンポラリー・ダンスとの相性

舞台&YOSAKOI(100)

 慌ただしく仕事を終えて支度をし、午後からワークショップ・マスターコースへ。黒沢美香さんという私よりひとつ年上の方が講師で、80年代から活躍するコンテンポラリー・ダンスのゴッド・マザー的存在なのだそうだ。しかし、実際に踊りを見たことはないのでどんな踊りをする方なのかは皆目わからない。  実際のワークショップは「今日は時間が短いから」といいながら彼女のやりたいことはだいぶはしょって行われたのかもしれないが、受ける私としてもよくわからなかったと言うのが正直なところだ。  最初ストレッチから始めて、体を動かしていくひとつひとつの感触をまず味わいなさいと言われた。そして教えられた動きは必ず「まず理由があって動きは始まる」と言われた、たとえば手が引っ張られたからそちらの方へ体が動き出すといったことだ。  そのあと一連の振り付けのような動きを教わり、「真っ直ぐからちょっと捻る。大きな変化ではなく、微妙な動きが美しい」との指導。これは少し理解出来た。こういう動きは不得意ではない。だが、端に寄って移動しながらの動きになるとリズムが入ってきて、自分のリズム感の悪さに閉口する。全く上手く行かない。同じリズムを正確に繰り返し刻むことがかなり私はかなり苦手なようだ。  そしてこんどはベースになる簡単な動きを教えられたあと、音楽に合わせて自由な表現を加えていく。さらにグループになって、必要があれば2人で組んだり、みんなであわせたりしながら向こうへ何かを運んでいくと言う課題を与えられた。楽しく笑いながら笑顔で踊って向こうへ着いたら。「楽しそうに踊ってるけど、ひとつも楽しくない。『安い舞踏会』みたいなもん」とばっさり。「表現することは常にギリギリの緊張感の中で行われなければならないし、その緊張感の中でこそ楽しまなければならない」とのことだった。それはもちろんわかるが、今日やって今日出来るものでもないだろう。  そしてさらに、「もう一度一人でも団体になってもいいけど、途中で一箇所“点火”する場所を設けてやってみて」と言われ、私はたまたまラテン系の音楽がかかっていたので、途中からパッションを体に解放し、スピリットダンスのように感じるがままに踊った。ただ、また楽しいだけでは意味はないと言われそうで抑え気味だったし、基本の動きはもちろん守った。こうして内面を評価されながら評価に沿うようにと踊るのはなんか嫌な気持ちだ。先生としては言葉や技術で教えられないものを感じさせてやりたいと思ってやっていることなのだろうが、どこか気が乗らない。  そしてその後の彼女の言葉は冷水を浴びせられた気分だった。「何人かそれらしく鮮やかに踊れる人はいるみたいだけど、そんなものダンスだと思ってないし、自分が今までやってきたことと、今教えた基本の動きの組み合わせを見たいわけじゃない」 自分がそのもっともらしく踊った人達に数えられているのかどうかはわからないが、それでもなんだか自分が今までやってきたことを全部否定された気がした。私は彼女の表情にも声にも言葉にも、自分と響き合えるものを感じることはできなかった。愛を感じられなかった。  コンテンポラリー・ダンスがどれほど素晴らしいのかは知らない。私は確かに素人だが、私にも私の踊りに対する考え方があり、私はパッションを、スピリットを動きの中に解き放ちたいし、曲と一体となって見てくださる方々と響き合える踊りを踊っていきたい。形式として表現形の踊りであっても、見る者の胸を打つ踊りはある。ごく限られた人にしかわからないような神の歓喜と離れた芸術を私は手にしたいとも表現したいとも思わない。  なんだかとても嫌な気分で凹んで帰ってきた。いろんなものを学ばせて頂けるのは有り難い。しかし、全てを自分の教師とする必要もない。それがどんなにその世界で一流といわれている人でもだ。

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