生命としての死 時間と言う観点の死
「相棒」を見る。「マジカル英語塾」復習を途中まで。もう1つのブログ記事を書く。仮眠。昼食。「大フットンダ祭」を見る。もう1つのブログ記事を書く。「初春トーク 宮崎駿×養老孟司」を途中まで。夕飯。「マジカル英語塾」復習途中。本の片づけをホンノ少しだけやる。ショッキングなことが。最近読んだ本を実は以前読んでいたことが判明。同じ本が2冊。全然気づかず。いかにいい加減に本を読んでいるか(汗「初春トーク 宮崎駿×養老孟司」の残りを見る。宮崎さんの書いた絵コンテのようなものに「おじいちゃん まだ 死なないの?」「ハハ もうジキだナア・・・」と言うセリフがあった。人間案外死期が分かるものらしい。私の祖母は病院で「もうお陀仏だな」と言った。私はうまく切り返せず黙っているしかなかったが、翌日に亡くなった。数年後祖母の孫(と言うことは私のいとこ)が32歳で亡くなった。職場の先輩の送別会後、その先輩の自宅で急死した。朝起きてこないので先輩が見にいったら寝ているのでそのままにした。数時間後もう1回見に行ったらまったく同じ姿勢で寝ているので「これはおかしい」となり亡くなっているのに気づいたそうだ。自分で死ぬだろうと言う意識も、痛い・苦痛と言う意識も無かったと推察されます。寝ているのと間違える位ですから。祖母は自分の死期を悟って死んでいきましたが,その孫はまったくそんな意識が無く死んでいきました。寝るが寝付き始めた頃に激しい腹痛・便意。腹痛が1時間以上続く。生命としては生きているけど時間としては半分死んでいるとしかいいようがない時間が続く。つらいことこの上ない。