ソクタッヘ王国物語

2020/06/28(日)00:00

週刊《ひとりごと》第66号(2020/6/21~6/27)

サイド欄のひとりごと・まとめ(番外編含む)(261)

第65号(2020/6/21~6/27) ​​今回の御法話は、久保光雲先生(浄土真宗本願寺派)の YouTubeチャンネル《久保光雲の法話 KounKubo》より、《聞法者の方へお知らせです。》です。​​​ 様々な坊様が、聞法の新しい形を試みておられます。 ​2020/6/21《自分のコトになって》手品師さんの《手品師》は、2020/6/20の記事《自分のことになって響く》より…↓ 最近ある自治体から、日々の歩数を記録する健康事業の参加者が、コロナ禍で増えたという報告がありました。新型コロナウイルスの感染に注意することで、健康への関心を高めたことが一因だと考えられます。・「無関心層」に向けて健康情報を発信し、健康リテラシー(理解力)を上げ、健康にプラスになる行動につなげることは簡単ではありませんが、繰り返し耳にした情報が、なにかのきっかけで自分のことになって響くことがあるようです。【朝日新聞 令和2年6月20日(日)付 30面 新型コロナより抜粋】・(ココから手品師さんのコメント)なんかピンときませんか?・「南無阿弥陀仏」のはたらきを語る上で、参考になる文章といいますか、重なる部分があるなぁ〜、と思いました。この文章を、私なりに「南無阿弥陀仏」目線で言い換えてみました。・「近親者などの死を目(ま)の当たりにしたことで、いずれ私(自分)も死んでいかなければならない、ということがより現実味を増しました。阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、いま・ここで・私に、はたらいています。ですので、遅かれ早かれ、南無阿弥陀仏のはたらきは、私の心に響くのです。」・おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏↑(当方の意見)近親者の死のみならず、環境の変化等々に直面しても、諸行無常・諸法無我・一切皆苦…そして、涅槃寂静…現実味を増してくるものです。 2020/6/22《乃至十念》ミーコさんの《お慈悲のままに》は、2020/6/22の記事《「乃至(ないし)十念」の意味》をば…↓阿弥陀仏は四十八願を立てられました。法然上人は、この四十八の誓願の中で「第十八の願」を本願中の王であると言われました。(『浄土真宗聖典』補注P.1572)・第十八願の文はこのようです。「たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、我が国に生ぜんと欲(おも)いて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」・ここで言われています「乃至十念」の意味を(『真宗の教義と安心』P.48)より引きます。「乃至十念というのは、称名の多い少ないを問わないということであり、さらに言えば称名の有る無しも問わないということである。これは称名念仏によって往生成仏が決定するのではないことを意味している」。このように、乃至念十とは称名の有る無しも問わないということですから、突き詰めれば一遍も念仏しなくても問題ないということです。・ところで、大事なことは念仏には必ず信心が具していることです。親鸞聖人は『信文類』に、真実信心必具名号(真実の信心は必ず名号を具す)と明らかにされています。ですので、信心を得たなら、念仏はせずにおれなくなるのも当然でしょう。・「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」( If, when I attain Buddhahood, the sentient beings of the ten quarters who, with sincere and entrusting heart, aspire to be born in my land and say my name even ten times, should not be born there, may I not attain the perfect enlightenment. Excluded are those who commit the five grave offences and those who slander the right Dharma. ( The Three Pure Land Sutras   VolumeⅡ)↑信心得たなら、念仏せずにおれない…と説かれる坊様もおれば、自分の心を信じてるダケや…と説かれる坊様だって。・信心得たトコロで、私は凡夫。やらかしては苦悩しちゃったりも。 2020/6/23《RPGツクールMZとな!?》どーせまた、MV(乃至Trinity)みたく(ry 《此私を御助け下さる事》《秀存語録》より…↓一〇 御助け下さる事  信次郎に仰せに、今晩(ばん)は大講師の御座故に、惣会所(そうくわいしょ)に参りてこい、おれが留守をする程に。然し覚えて帰るではないぞ、よく聞いてきて聞かせてくれよ。その帰り来るをまちて、信次郎、どうであつた。云く、此私を御助け下さる事で御座りました。それは、難有い事をきいてきたな。  ↑此私を御助け下さる事=仏願の生起本末…を聞くコト。 2020/6/24《稲葉のこう女》《染人百話》より…↓《稲葉のこう女》同郡竹生村稲葉のこう女は後に妙意と云うた。出離の望み厚い稀な念仏者であった。死ぬまで聞きたがってぐづ々々云うたから人は乞食仏法じゃとか、親子名乗りせずに極楽参りした人じゃ、又信心得ずに御浄土参りした婆さんじゃとも云うた。  ・○御聞かせの一句々々が末期の水呑むここちがするといつも云うていた。又私が忘れるで彼方が忘れておくれぬ、私が離れるで彼方が離れておくれぬ、私が思わぬで彼方が思いづめにして下さるる。  ・○後生大事とも、恐ろしいとも、何とも思わぬ、黒玉みたようなものが胸にある。斧で割っても何ともない心がある。この黒玉が今堕ちよる。これに自然と親様の御心が届いて下さるるのじゃそうな。骨折って聞かぬとなかなか届いて下さらぬ。又機の知れた人には滅多に遭えぬ。又、病中甥の中山市右衛門に曰く、この心の恐ろしいと云うことの知れるまで聞くのじゃ。これだけはたのむぞえと。 2020/6/25《綺田のかよ女》《染人百話》より…↓《綺田のかよ女》湖東蒲生郡綺田のかよ女は、深く仏恩を念じて称名絶ゆることはなかった。早苗とるにも秋田苅るにも一株々々戴いては御念仏した。  ・○生涯こまるとか悪いとか云う言は口にしなかった。或日、藁屋根の葺き替えをしたが、折悪しく暴風雨になった。家人が今日は困ったことになったと云うと、こう云う日がなけねば御天気の有難さが知られぬと。  ・○その夫は養子であったが妻に似ぬ極めて邪見もので、種々の事を巧んではかよ女の三宝崇敬の邪魔をした。或時二十八日祖師の御命日を殊に撰んで、自身が桜川で河魚を捕え来てすすめた。ところがかよ女は少しも変わった色も見せぬばかりか、妾までも御相伴をさして下さるるか、有り難いことであると嬉しそうに食うた。これを見た夫は一方ならず驚いたが、それから後は不思議にも心を改め別人のやうに打ち変わって柔順になった。これを見聞した土地の人々も感ぜぬ者はなかった。その時かよ女の心中は思いやられる。なお遠くは祖聖の昔を忍び奉らずには居られぬ。 2020/6/26《三州のみつ女》《染人百話》より…↓《三州のみつ女》三州のみつ女は御法義を大切に心懸けていたが、人からお前さんはよう御喜びじゃなあと云わるると、両手を振って、否否、私はそのようなものではない。いつも地獄の釜の上に居りますと。  ・○さっぱりあかぬさっぱりうそじゃと云う。なぜかと云うと、仏様は一寸とも拝んだことはなし、御念仏さまは大きらい。孫子には死んでくれればといわるる奴じゃでなあ、と。それでもおみつさん、如來さまはどのような奴でも待ってる待ってるの仰せばかりはほんまじゃげなと云うと。ああほんまであるか、そうかなあ、おみつ早う来い々々々、ほんまじゃ々々と仰せらるるとは嬉しいことで御座ります。 2020/6/27《盗人あり》《香樹院語録》より…↓二。表裏の不相応  法話を聞く僧に盗人あり、また俗にも盗人あり、其の故は、高座の傍に居ながら、信心の方をおしのけて、面白き言葉あれば、我が身法談の得分にしようとかかる。是れ盗人なり。俗人は初に諸人をだまし、次に僧をだまし、次に仏をだます。その故は、仏法者らしき顔して参詣し、諸人にほめられようと思うは、是れ諸人をだます也。僧の前に出で、口に綺麗に云いならべるは、僧をだます也。しかしてその心中は、みな仏をだまして居る也。これ仏法の盗人なり。​来週(2020/7/5)の《週刊《ひとりごと》第66号》は、 2020/6/28~7/4分の記事を纏めて掲載する予定です。​​​​​​

続きを読む

このブログでよく読まれている記事

もっと見る

総合記事ランキング

もっと見る