以前にも書きましたが、中国は国力が増すと周囲を侵略し始めます。
それは今に始まったことではなく、中華思想そのものと言えるでしょう。
現在の中国も1,000年以上前からその実体は何も変わっていません。
実際に7世紀の唐時代には国力の増大と共に海外侵略政策を採って、日本とも朝鮮半島で激突しています。
663年の白村江の戦いとして知られていますが、その実態はよく解っていないようです。
でもまあ、今と同じなのでしょう。
http://plaza.rakuten.co.jp/mabo400dc/diary/201007290003/
その後も755年の中国の内乱である安史の乱が勃発するまでの92年間、日中の緊張関係は続きます。
今回も同じ様なことが繰り返されるのでしょう。
白村江の戦いでは、500万人程度の当時の人口の日本から27,000人の将兵が朝鮮半島に派兵され、
10,000人が帰らなかったという惨敗を喫していて(数字は各種文献の寄せ集めで正確ではないかもしれないが)、
その後も唐またはその属国の新羅が日本に侵攻してくるのではないかという懸念のもと、対馬、壱岐、太宰府から畿内まで狼煙による通信網が整備されたり、太宰府を防衛拠点として城が築かれ、遠く東国から防人が派遣されていました。
その防衛拠点が太宰府を中心とする大野城や水城(ミズキ)といわれる当時としては巨大な軍事施設で、
当時の日中間の緊張状態がしのばれます。
表題の地図は太宰府(右下の長方形)を死守する目的で築かれた、
いざともなれば決壊させて敵を壊滅させる水攻め用の巨大なダムの位置を示しており、
そのダムは高さ13m、幅60m、長さ1.2kmに渡って満々と水をたたえた大きなものだったようです。