マックの文弊録

2010/08/08(日)16:16

宇宙人に会ったらどうするか?

よもやま話(75)

☆ 8月6日(金曜日) 旧六月二十六日 戊子(つちのえ ね) 先勝: 広島平和記念日 宇宙人に会ったらどうするか? 明日は立秋だ。このブログには以前にも書いたが、暦に対する東洋と西洋の季節感覚は異なる。東洋では立秋というと、秋の魁のように考え、テレビなどでは明日になると「今日から暦の上では秋ですが・・・」という。必ず言うはずだ。 しかし西洋での立秋は夏の盛りだと考える。秋だとは考えない。これは立春も立冬も立夏も同じだ。つまりは、日本人を始めとする東洋人の季節感は微分型であり、西洋のそれは積分型だといえる。 だから、明日は立秋だけど暑い。当分猛暑は続くことになる。 「立秋なのに暑いですねぇ」というのは実は変なのだ。 暑いと特に脳細胞は甚大な影響を受ける。脳を構成するタンパク質は44℃で熱凝固を始め、正常に機能しなくなる。ニュースで、あそこは37℃の暑さだとか、今日は38℃を超えたとか聞いていると、脳が固まる直前で生きているような気持ちになり、怖くも憂鬱にもなる。 だから、何とか脳細胞を活性化しておこうと思って考えた。 それが「宇宙人に会ったらどうするか?」だ。まぁ、猛暑のさなかの思考実験というところだ。 結論を言えば、「宇宙人に会っても分からないだろう」ということになってしまった。 何となくつまらない結論だ。でも、そうなったんだからしょうがない。 先ず前提として、宇宙人は居るのだと仮定しなければならない。これには何も科学的根拠はない。そうしなければ話が始まらないから、これもしょうがない。 だから宇宙人は居ることにしよう。 その宇宙人も我々に近い「地球型」と仮定しなければならない。地球型というのは、炭素と水素と酸素を主要な構成要素としている。つまりタンパク質から体が作られているということだ。珪素や他の元素から作られている知的生命体だって考えられるかもしれないけれど、そういう生命と我々人類が、何らかの形で交流が出来るとは考えにくい。 また、宇宙人の生きる「時間のスケール」も、我々のそれと大体同じであるとしなければならない。一生が数百万年というような宇宙人だと、我々からすれば山や大陸を相手にするようなものだ。逆に一生が10秒だというような宇宙人だと、慌しくてしょうがない。 どちらも、多分我々はそれを宇宙人だとは思わないだろう。相手を宇宙人だとすら気が付かないはずだ。 こうなると、我々が会うことになる宇宙人は、限りなく我々自身に近いものになるはずだ。我々と同様に酸素の混じった空気を呼吸し、水が潤沢な世界で、タンパク質によって構成された身体を持っていることになる。 次に我々は未だに、地球上に留まったままである。宇宙ステーションだって、厳密に言えば「地球の高空」であって、宇宙というにはおこがましい。だから、宇宙人のほうが地球に来てくれていないとダメだ。そうなると、必然的に宇宙人の側では、人類より科学や技術が進んでいるとしなければならない。 先日のこのブログにも書いたが、日本の「はやぶさ」は、宇宙空間を世界最長距離航行した。60億kmの距離である。しかし、世界最長といっても太陽系の中の旅である。そして太陽系の中には、我々に匹敵できる知的生命体は居ないことが分かっている。そうなると宇宙人は太陽系外からやってくることになる。 そして現在段階では、地球から見渡せる範囲に地球外生命は、まだ見つかっていない。しかし、太陽系の外に、惑星を持つ恒星は、近年になってどんどん見つかり始めた。 タンパク質で構成される知的生命体は、高温や強い放射線にさらされる恒星には生まれないし、住めない。だから宇宙人は惑星系を持つ恒星に存在しているはずだ。 現在見つかっている惑星系があるらしい恒星の内、おとめ座70番星(70Vir)(地球から78光年の距離)の惑星は、観測によると木星の約7倍の質量を持ち、かなり扁平な楕円軌道を描いている。親星からの距離は約4ヵ月の公転周期中大幅に変化するので寒暖差が激しいが、平均気温は85℃くらいだそうだ。この状態ではH2Oは水(湯?)になっている。そうであれば、海があるかも知れない。海こそは生命誕生の場である。この惑星に大気が、海が、生命が・・・と期待するのは先走りすぎるだろうか?しかし平均気温がこれでは、やはり大きな脳が発達する可能性はなく、従って宇宙人はどうも此処には居なさそうだ。 またおおくま座47番星(47UMa)(地球からの距離は46光年)の惑星は木星の2倍くらいの重さで、約3年で親星の周りを回るっている。これは我太陽系の木星によく似た状態である。 地球からの観測では、いかに大きな望遠鏡でも惑星の姿を観ることはできない。ハッブル望遠鏡でも、すばる望遠鏡でも、とても惑星を像として観測することは出来ない。惑星(系)を持っている親星(恒星)の軌道のふらつきを、ドップラー効果という現象を利用して観測し、それから惑星があるかどうか、あればどれくらいの質量で、どういう軌道を描いて親星の周りを廻っているかを、間接的に「観る」ことができるのだ。それも、惑星系の中でも最も大きい星の存在しか推測できない。 だから、おおくま座でも「木星の2倍くらいの・・・」までは推測できるが、更に他にも地球のような環境の惑星があるかどうかは、我が太陽系の様子を参考にして推測することになる。 つまり、おおくま座47番星の、木星型の惑星の軌道の内側にもっと小さな惑星が存在しているかもしれないという推測は出来るのだ。そうだとしたら・・・これはもうわが太陽系そっくりではないか。此処にはひょっとしたら宇宙人は居るかも知れない。 何れにしても、我々の「ご近所」を探してみた結果は現在こんなところである。 だからこの際、「おおくま座47番星宇宙人」が居ることにしよう。 さて、そこから彼らが地球にやってきたとするならば、宇宙人は46光年の距離を旅して地球にやってきたことになる。 ところで、1光年とは光が一年かけて進む距離である。換算すると約9兆5千万kmになる。更に換算すると、1光年は「はやぶさ」が7年かけて旅した距離の約1600倍である。 つまり、おおくま座から地球までの46光年とは、「はやぶさ」の7年間の総航行距離の、7万3千600倍だということになる。 若し宇宙人がこの距離を「はやぶさ」同様の技術で航行したとすると、単純に計算して51万5千200年かかる事になる。こんなに長い時間をかけてわざわざ地球に来るのは考えにくい。もっと短い時間でやって来られないと、何だか宇宙旅行の宇宙人にとっての必要性も、現実味も感じられない。だから、恐らくは宇宙人の科学技術は地球のそれより(少なくとも「はやぶさ」水準の技術より)はるかに高いレベルにあると考えるべきだ。 長時間にわたる宇宙旅行をしのぐために、休眠(仮死状態)でやってくるという方法もある。(誰かのSF小説にもそういうのがあった。)その場合でも50数万年(しかも片道である)は長すぎる。宇宙船の中の生命維持装置の耐久性や劣化もあるし、何よりこんなに長い時間離れていると、故郷の星との靭帯が切れてしまうだろう。50万年といえばちょっとした地質的な時間ともいえるのだ。 そうなると、故郷の星の文明が継続することができて、相互に何とか耐えられる時間というと、せいぜい千年から数千年程度ではないだろうか。つまりやっぱり宇宙人の科学技術は相当高いものでなければならない。 次に、最も重要な点だが、宇宙人は何のために地球までやってくるのかということである。 再び「はやぶさ」の例を取ると、はやぶさの年間運用費は約1億円だった。これは日本一流の超低コスト(要するに超ケチ手法)である。これを単純に外挿すると、宇宙人の宇宙船が地球にやって来るまでの運行費用は51兆5千200億円ということになる。 勿論宇宙人のほうが科学技術の点でははるかに進んでいると仮定したのだし、航行期間も「はやぶさ」よりははるかに短いだろうと仮定した。 それでも、「はやぶさ」には生き物は乗っていなかった。載っていたのは機械だけだ。宇宙船には宇宙人が、それもまず間違いなく複数が乗っているのだ。それを考えると、コストはもっとかかるかもしれない。何れにしても気軽に宇宙旅行に出かけられるほど廉い費用ではないはずだ。 そうなると、宇宙人の目的は観光旅行などではないだろう。 これだけの距離をこれだけの時間と費用をかけてやってくるのだ。よほど止むに止まれぬ理由があるに違いない。 それでは、宇宙での孤独感を癒すために地球の知的生命体と友好関係を結びに来た? いやいやそんな甘っちょろい感傷的な理由ではなかろう。第一我々地球人だって、わざわざ大枚はたいて、自らの人生まで賭して、とんでもない遠方まで出かけて、原始人と友好関係を結びに行くだろうか?少なくとも私はぜんぜん行く気はないし、蓮舫さんは絶対認めないだろう。 唯一考えられるのは、地球の環境への憧憬かもしれない。 タンパク質系生命にとっては、豊かな海と多様な気候に恵まれた地球のような星は、まさに垂涎のまとであろうと思えるからだ。 再び観光旅行などというものは考えにくいから、そうなると彼らは、地球に移住する、つまり地球を乗っ取るためにやって来たということになる。 さて、これまでのところをまとめてみると、宇宙人は少なくとも数十光年のかなたから、地球を乗っ取るためにやって来た、非常に科学技術の進んだ、そして我々によく似た連中だ、ということになる。 と、この辺りで一旦区切りとして、続きは明日のブログに譲ることにする。

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