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テーマ:まち楽ブログ(32185)
カテゴリ:その他
こんにちは
新人のケイです。 最近、気温の高い日が続いていますが、皆様いかがお過ごしですか? さて、前回、戦国時代の終わり頃、深谷城主上杉氏に仕えた秋元景朝・長朝父子について書きましたが、今回、その二人に関わるお寺に行ってきました 上柴町西にある元誉寺です。 立派な門が建っています。 私が小さい時は、お寺のすぐ近くに、お地蔵様と大きな桜の木があったのですが…。 今では、お地蔵様だけになってしまったみたいですね… 元誉寺は新義真言宗のお寺で、ご本尊は「十一面観世音菩薩」。 あの有名な京都の長谷寺をかたどった配置をしていると言われています。 鐘もありました この元誉寺に「秋元氏の墓」があるのですが、このお墓も市指定史跡です。 お寺の外に看板が出ています。 これが「秋元氏の墓」です お墓、とありますが、実際には「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」と呼ばれる仏塔(供養塔)らしいですよ。 以前、チェ・ホサ氏が紹介していた供養塔(五輪塔)とは違う形の供養塔ですね。 前回ご紹介した市指定史跡「秋元氏陣屋跡」は秋元長朝のころ作られましたが、この元誉寺も長朝のころ建立されたそうです。 石碑にも書いてありました もともとは「金燈籠山」(石碑には「鉄燈篭山」と書いてありますね)のふもとに元誉寺があったらしいのですが、長朝の息子の泰朝の時に、現在地に移され、増築されたとか。 ここで気になる「金燈籠山」ですが、これ、「秋元氏陣屋跡」のある辺りの場所をそう呼んでいたそうなんです (前回の写真) そういえば、日赤の方から「秋元氏陣屋跡」に向かって行く時、のぼり坂になっていたような…。 なんとなく、「山」っぽい雰囲気が漂っていますね。 この「金燈籠山」という呼び名は、世良田東照宮(群馬県太田市)に奉納する金燈籠を造って、しばらく置いておいた場所だったから、というのが由来だそうですよ 東照宮というと、徳川家康を祀った神社ですね。 地名からも秋元氏と徳川氏の関わりがちょっと見えてきて、面白いですね この灯籠はいまでも世良田東照宮の拝殿の前に置かれているそうです(鉄灯籠、国指定重要文化財)。 さて、前回の続きですが…… この供養塔の主、秋元氏は、豊臣秀吉が亡くなったあとは徳川家康に仕えることになり、「関ヶ原の戦い」も経験することになります。 波瀾万丈ですね… 秋元氏は関ヶ原の戦いでも活躍! 家康が「東軍」、対するのが石田三成率いる「西軍」ですが、長朝は「東軍」の一員として、「西軍」の上杉景勝と交渉をして、その南下を防止する、という功をたてました そして、家康から上野国惣社(群馬県前橋市)1万石をもらいます。 秋元氏は治水関係の工事が得意だったらしく、長朝は、惣社の地で「天狗岩用水」(天狗伝説が残っているそうです)を作ったり、新田開発を行ったりしました そこに住む人々からもとても慕われていたと言われています 秋元氏の菩提寺も前橋市総社町にあり(光厳寺)、秋元家累代の墓もそこにあるそうです。 深谷生まれの人物の活躍した様子が、何百年もあとの現在まで、色々な地域に伝えられ続けている、というのはすごいことですね 深谷にはまだまだ史跡や神社仏閣等々、歴史に関わるものがたくさんあるので、次回以降も少しずつ、ご紹介できたらいいなと思っています。 では、また 参考 ・深谷上杉・郷土史研究会編纂『深谷市の史跡案内』深谷上杉・郷土史研究会、2011年3月 ・深谷上杉・郷土史研究会編纂『深谷市の神社と寺』深谷上杉・郷土史研究会、2011年3月 ・深谷市ホームページ「深谷市の歴史と文化財」のページ: http://www.city.fukaya.saitama.jp/syougaigakusyu/web_rekisi_bunkazai/index.htm お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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こんにちは、前橋市の和久井です。前橋市総社町光巌寺(こうがんじ)にある薬師堂の歴史について興味があります。この薬師堂は約400年前、武州上野台にあったものを秋元長朝が引移したと総社町郷土誌に伝えられています。そこで、この上野台にあった薬師堂の位置が何処であったのか知りたく調査しています。なお、参考までに来週(令和元年8月22日)に総社町の秋元氏菩提寺光巌寺(こうがんじ)境内では恒例の薬師如来祭りが行われます。調査の内容は、元の薬師堂が「臺の薬師」として上野台では今も崇拝されていると記されていますので、その場所が何処か特定したいということです。
私の考えでは、元誉寺(上柴町西)にある市文化財の「胎蔵界薬師如来座像」あるいは元誉寺山門前のお堂「薬師如来」ではないかと想像しています。もし、今も地元で崇拝されているということであれば山門前のお堂のことでしょうか。それとも元誉寺境内の薬師堂の縁日があるのでしょうか。郷土誌に記載の上野台とは、秋元町、上柴町西も含まれるのでしょうか。もし元誉寺が金燈籠橋付近にあったとしますと、この付近で今も「臺の薬師」なる祭礼をされている場所があるのでしょうか。いずれにしても「二十二夜」「講中」の共通点は一致しているようです。祭礼があるとすれば総社と同じ「二十二日」になるはずです。 是非、何かお分りの点があれば教えてください。よろしくお願いいたします。 【資料:明治43年の惣社町郷土誌より】 光巌寺の薬師堂について 「俗稱觀音山にある二間四方の一小堂宇にして中に藥師如来を安置せる記録なくして由緒不詳正確なる事を記すに由なしと雖も古老の傳説に依るときは往昔秋元候居を此の地に移せし時舊來邑武州上野台より引移したるものにして古來靈驗著しく祈願を罩むるもの多し今猶八月二十二日を年中の縁日として祭る夜に及べば住職伴僧を具して読経法樂を供ふ四隣の善男善女皆参詣して冥護を祈り附近市を為し露店大に賑ふ。此の夜粟島町にては戸毎に燈明を表に掲け以て町内安全子孫繁昌を祈れり。」 「因に武州上野臺には今も獪以前の藥師の臺をだし臺の薬師として崇拝しつゝのありと古老に聞けるが儘を記す。」 (2019年08月16日 22時06分37秒) |