2013/02/04(月)18:26
天狗党と渋沢栄一
みなさんこんにちは。チェ・ホサです。先日、「中の家」近くに大きなお地蔵さまがいると
ここで書きましたが、
その横にも大きな石碑がありました。「弔魂碑」と書いてあります。最後には渋沢栄一翁の名前が裏面には「血洗島村中建立」とあります。フムフム 文面を読むと「天狗党の乱」※に関するもののようです。そう書くと、深谷とは何も関係がないようですが、
天狗党の面々が京へ上る途中、幾つかのグループが上野へ入る途中に
血洗島を通ったそうです。碑文には、血洗島に入った二人の天狗党が
幕命が下っていた岡部藩に討伐され、
慙死してしまったそうです。血洗島村の人たちは二人を不憫に思い
丁重に埋葬したそうです。
しかし、当時は幕府に対する逆賊ですから、
墓碑も何もなく、静かに葬られたそうです。時が流れて、時代が明治になり
尊王派の天狗党の面々は復権され、
悲劇も多く伝えられるようになりますが、
血洗島の名もなき二人は、
静かに眠るだけです。そこで渋沢栄一翁は
二人の名誉を回復するため、
この地に石碑を建立したそうです。ちなみに、栄一翁が「徳川慶喜公伝」を書く際、
慶喜に天狗党の処置について
「あれは難しかったかと思います」と問いかけたと云います。
自分を頼ってきた若き志士に対し、会うことを拒絶した慶喜としては、
大変な政治決断だったのでしょう。※「天狗党の乱」は、1864年3月水戸藩の尊攘派天狗党が筑波山に挙兵した事件です。
文久3年8月18日の政変(会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、
長州藩を主と する尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件である)を機に、
水戸藩では保守派が実権を握り、これと対立する天狗党はついに
朝廷の攘夷延期不満を掲げて挙兵しました。
流血の党争を続けましたが、幕府の追討を受けて敗走、
一橋慶喜をたよって上洛しようともくろみましたが、
各藩の抵抗にあい、ついに京へは入れず、途中の加賀金沢藩で全員降伏したものです。