旧国鉄大原トンネル猿橋側坑門
こんにちは、資料館です。仕事や趣味で、大月市内をあちこちブラブラしています。いつも見慣れた景色の中での気づきや発見を紹介しています。今回は、市内に残る旧国鉄時代の廃トンネルの一つ、大原トンネルを紹介します。上の写真は、市道猿橋東町線沿いにある居酒屋の横を下りた所から見た坑門です。坑口がやぶに覆われているので内部がほとんど見えませんが、きれいに整えられた石積みやレンガ積みの見事な姿を見ることができます。建設から100年以上、廃棄されてからでも50年以上も経っているので、それなりにくたびれてはいます。また、残念なことには坑口上部にあったであろう扁額も取り払われています。それでも、現在の実用一点張りのコンクリート製の無機質のもの比べると、懐かしさと温もりを感じるとともに、明治時代の意匠の素晴しさと手積み技術の高さに感動を覚えます。こちらは、市道側から見る坑門の裏側です。上部の胸壁の一部とその上に載る帯石と壁柱の頭しか見えないので、通りすがりの人にとってはただの凝ったレンガ造りの塀としてしか眼に映りません。奥に見える赤い橋は、国道20号線の「新猿橋」です。下り車線に巾1間ほどの歩道が付いていて、中央付近にある展望デッキから名勝猿橋を川下から眺めることができます。また、新猿橋西信号から東京に向かって歩いて行くと、左下に大原トンネルから架けられた鉄橋を受け止めるレンガ積みの橋台を見る事ができます。また、川向うに坑門を正面から見る事もできます。猿橋に立ち寄った際にはブラブラしてみてください。様々な角度からものごとをとらえることが、気づきや発見につながりますね。※おまけ大月市南部を国道20号線に沿ってJR中央線が東西に走っています。今でこそ、上下線がそれぞれ専用の線路を持つ複線で、列車のすれ違い走行ができますが、つい50年ほど前までは、上下線を一つの線路で共用する単線でした。単線では、上下線の列車が行違える場所は駅しかなく、衝突する危険があるばかりでなく、運行本数を増やしたりスピードアップを図る上での制約もありました。高度経済成長期に入ると、輸送力の向上を図るために、小仏峠以西の区間でも複線化が進みました。大月市内では、1968(昭和43)年の梁川・猿橋間の複線化をもって、全区間が複線となりました。複線化するにあたっては、他の区間が単線線路に並行して新たな線路が増設されているのに、鳥沢駅-猿橋駅間だけは、大幅にルートが変更され新設されています。現在のルートでは、500mの「新桂川橋梁」と1200mの猿橋トンネルによってほぼ一直線で両駅間は結ばれていますが、単線時代は、現在の国道20号線「大月総合体育館入口」交差点を斜めにまたぎ、北側の山すそを4つの小さなトンネルを抜けながら大きなカーブを描いて走り、猿橋のすぐ下流に架かる鉄橋(第二桂川橋梁)を渡って国道「新猿橋西」交差点に出て、喫茶「三登屋」の南側をかすめて猿橋駅へと向かいました。地図をつけますのでご確認ください。まずは単線時代のルートです。こちらは現行の複線のルートです。地図は二つとも「今昔マップ on the web」より作成しました。※おまけのおまけ中央線大月駅が開業したのは1902(明治35)年のことでした。笹子トンネルが開通したのも同年で、翌年には甲府駅が開業しています。それから100年以上もの間、列車は大月市南部を東西に走り続け、たくさんの人や物を運んできました。市民のみなさんも一度は利用したことがあるはずです。100年以上ともなると、その間にはいろいろなことがありました。車社会の到来による交通構造の変化の中での国営から分割民営への移行はその最たるものです。もっと身近なところで、大月市内の区間に限っていくつかあげてみました。まずは、最初から6つもの駅があったわけではないことです。甲府までの開通時には、鳥沢・猿橋・大月・笹子の4駅しかありませんでした。初狩駅は、1908年に初狩信号所として開設され、2年後の1910年に駅に昇格しました。そして、梁川駅が開設されたのは、戦後間もなくの1949(昭和24)年のことでした。1960年代の高度経済成長期には、輸送力の増強を図るために、動力が蒸気から電気へと、軌道は単線から複線へと変わりました。これと同時に、初狩駅・笹子駅のスイッチバックは解消されることとなりました。また、鳥沢駅-猿橋駅間では上に述べたような大幅な路線変更がなされました。1987(昭和62)年の民営化を経て、選択と集中の結果、大月駅以外は無人駅(駅員無配置駅)や「時間帯無人駅」となってしまいました。参考にしたのは、JR東日本旅客鉄道株式会社八王子支社「中央線まめ知識」です。