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やまなしブランド公式ブログ 山梨県知事と職員のブログ~やまなしものがたり

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週末連載 ビタミンやまなし ジュエリー物語

Jul 10, 2010
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週末編集長の仲田です。

これまで、山梨の水晶研磨とジュエリー生産の歴史をお知らせしてきましたが、
今日は、現在の山梨のジュエリー産地の概況をご説明します。


山梨の産地には、大きく分けて

○ 水晶、宝石の加工
○ 貴金属加工
○ 産地問屋機能

の会社が存在します。


組合も、

○ 水晶美術彫刻組合
○ 宝石研磨工業組合
○ 貴金属工芸組合
○ ジュエリー協会(産地問屋。現在は自社に生産機能がある会社が増えています)

と分かれています。


事業所数は約500社、従業員は約7千人となっています。
(H18事業所統計)


また、経済産業省の工業統計(平成20年度)では、
貴金属製装身具(宝石、象牙、亀甲を含む)の分野で
全国の出荷額1157億円に対し、山梨県は384億円と33%のシェアを誇っています。

平成2年度には、山梨県だけで1000億円の出荷額となっていましたが、
このときの全国シェアも約3割でした。

このことから、トップシェアを誇る山梨県のジュエリーの生産は、
日本のジュエリー生産と連動していることが分かります。


水晶美術彫刻
水晶美術彫刻
写真提供:(社)山梨県観光推進機構

貴金属加工
貴金属加工
写真提供:(社)山梨県観光推進機構






最終更新日  Jul 10, 2010 12:12:49 AM

Jul 4, 2010
フジヤマ クリスタル ネックレス」で一躍産地形成をした山梨県。

今回は、その山梨の研磨技術をご紹介します。

まずは、石を見極め、クラックやキズのないところを割り込みます。
割込(かっこみ) 1 割込(かっこみ)
             
小割 2 小割
             
荒ずり 3 荒ずり
             
中ずり 4 中ずり
             
仕上げ 5 仕上げ
             
木砥手みがき → 完成品 6 木砥手みがき → 完成品

写真提供:山梨県(山梨県郷土伝統工芸






最終更新日  Jul 6, 2010 08:34:03 AM

 山梨ジュエリー物語、今回は番外編で、「フジヤマ、クリスタルネックレス」のご紹介です。

 大正から昭和初期にかけて、「フジヤマ、クリスタルネックレス」によって、山梨のジュエリー産地は一気に拡大していきました。

 その様子が、県ジュエリー協会のホームページで次のように紹介されています。



 明治33年甲府の町に電灯が灯った。

 業者は電気仕掛けの機械を作る為に様々な創意工夫をこらした。「めがね玉平面研磨機」「水晶琢磨器」等々。実用電力機械化のための開発努力によって、今日の高性能の機械化へと発展していった。

 大正初期に入ると、外国から首飾りの注文が舞い込んできたが、当時の業者は首飾りなる品物を知らず受注したくてもカット石の均等量産が不可能で歯ぎしりするばかりであった。

 しかし、海外の事情が段々解るにつれて、ネックレス生産の決め手である「連摺法」を遂に開発した。
(注:連摺(れんずり)とは、ネックレスに使う水晶を一度に同じ形に磨く手法のことです)

 この開発によって、水晶カットの多品種化、均一量産化が可能となり、高級水晶首飾りが市場に出廻るようになった。

 このネックレスはMade in Japanの「
フジヤマ、クリスタルネックレス」と称され、特に米国婦人層に好評を博するようになり、輸出品の王座を占めるまでに発展していった。



水晶研磨
写真提供:山梨県観光推進機構(水晶美術彫刻の過程)






最終更新日  Jul 4, 2010 09:56:51 PM

『これは親に手伝ってもらったな』 松沢安行 ワイズジュエリー
(第3話) 最初から読む

2 商品の流通を変えるデザイン

『私が探していたのはこれなの!』


 同じ様なものが他でできないのは、松沢さんと職人さんの共同作業が型にはまった一定のスタイルではなく、常に前向きなクリエイティブな作業だからではないか。

 そして、そういうデザインは、流通をも変えうる力を持っている。作った商品は展示会で販売するのだが、ワイズという企業名ではなくデザイナーブランド『松沢安行』のコーナーで直接ユーザーに売る。このような展示会は、月に何回か日本全国のホテルや百貨店などで開催されている。もちろん、小売店さんなどが間に入って、お客さんを連れてくるのだが。

 はじめは、松沢さんの方からお願いしていたのが、このごろは逆に、主催者から『ぜひ出て下さい』と誘われるようになっている。

「直接お客さんと話をして、販売するんです。だから、自分のデザインしたものをどういうお客さんが気に入って買ってくれたとか、そういうことがわかるんです」

 会社が出来て3年。会社を立ち上げた最初の頃には、当然こういうルートはなかった。そのため、普通の会社と同じルートで商品を流していた。見込みで作って、問屋さんに持って行ってもらう。『これ10万円のところ7万円にすれば買ってやってもいいよ』というようなことで、メーカーのブランドではなくなっていく。その問屋さんは自分のものとして小売店さんに売る。買い取りにしろ委託販売にしろ、売れたら支払うというシステムだから、ほとんどが長い手形で取り引きされている。しかし、今のワイズは商品を直接お客さんに売る。それはデザインの力よるものである。

「お客さんは自分だけのものというのが欲しいんですよ。潜在的に。だから、『これは今までになかった。私が探していたのはこれなの』というような言葉をよく聞きます。『初めてめぐりあった』とか、『あの人に薦めたかった。あの人に買って欲しかったのは、これなんだ』とか。本当に素直に感動の気持ちで言ってくれます」

 先日、うかがった帝国ホテルでの展示会では、私の目の前でお客さんが商品を手にこう言った。『一目惚れしちゃった』と。

 そんな光景を見ていると、自分だけのものを欲しいといういう意識の人が増えていると感じる。本当はこれが欲しかったというイメージを潜在的にどこかにみんな持っている。これだけものがいっぱいあふれている時代。手に入れようと思ったら何でも手に入る時代。だから逆に、自分を表現するものにはこだわりを持ち始めている。その波長と松沢さんのデザインが重なり合う。

(続く)






最終更新日  Jul 6, 2010 07:16:34 AM

Jul 3, 2010
『これは親に手伝ってもらったな』 松沢安行 ワイズジュエリー
(第2話) 最初から読む

個性的なデザイン

「個性的なデザインが必要なことは、どこの会社でも、どこの経営者も分かっているんです。でも、そういうデザイナーブランドやデザインというものをメインに打ち出して売っている会社が山梨にはないんです」

 松沢さんのデザインは5人の職人さんが商品にしている。その際、あまり丁寧なデザイン画というのを描いてない。口で説明して、『これとこれをこうしてね』というようなことでわかってくれる人でないと作れないような世界。ツーカーでわかってくれる人でないと、そういう雰囲気を出せないような関係がそこにある。

 デザインともの作りが一体となって商品が生まれる。同じデザイン画を見せて、同じように説明しても、全く違う出来がりになってくることがある。技術的に作るのがうまければいいかというと、なかなかそれだけではない。逆に技術的な磨き方がどうだとか、石の研ぎ方がこうでなくてはダメだというようなこだわりは全く持ってないと松沢さんは言う。

「磨き方がきれいだから買うとか、値段があと1万円安かったら買うとか、そんな人はいないんですね。実際、お客さんが買うのに、そんなところを見て買っているお客さんは1人もいません。でも、問屋さんは言うんです。『こういうのでは…』とね」

 そこに問屋と買い手との違いがある。お客さんはどういうところを見て商品を選んでいるのか。直接お客さんと対応することによってそのへんがだいぶ分かってきた。松沢さんは、そんな経験を通してデザイナーブランドでやっていける、自分のデザインは望まれていると確信し始めた。


▼そういうデザイナーブランドでやっていけるとお感じになったのには、何かきっかけはあったんでしょうか。

「具体的なきっかけは、ちょっと記憶にないんですけど…。こんなことを言うと生意気ですけれど、いろんな展示会でね、お客さんがものすごく要求してくれているというのを感じるんですよ。欲しがってくれている。だから、とにかく作ればすぐ売れてしまう。だけど、数がそんなにできるものではないんで、利益はあまり出ないんです。でも、お客さんに望まれているということは肌で感じるから、今はやれるなあと思ってはいるんですけれど。この先どうなるか自信があるわけではないんですけれどね。」

▼作れば売れるという確信みたいなもの。それはどういう感じなんですか。

「それは、ちょっと言葉では現せないんですが、でも、デザインを書いてみるとなんとなくわかるんです。自由な組み合わせ、躍動感が自分の波長に合ったときってあるじゃないですか。そういう感じをお客さんも欲しがっているんじゃないのかな。そういう感じがここ2~3年あるんですね」

▼世間の話では、松沢ってのがおもしろいことをやっているらしいから、同じような石をうちにも安く売ってくれというようなことを言う人もいるらしいじゃないですか。

「そうですね、注目はされているみたいだけど、他ではちょっとできないんじゃないですか。この間、甲府のアイメッセでやった展示会なんかでも、似たようなものすら出てこないんです」

(続く)






最終更新日  Jul 4, 2010 09:47:31 PM

Jul 2, 2010
週末編集長の仲田です。
先月の市川和紙の物語に続き、
今月のビタミン物語は、山梨最大の地場産業ジュエリーに関する物語です。
この物語も10年前に書いた記録です。



『これは親に手伝ってもらったな』 松沢安行 ワイズジュエリー
(第1話)

1 常識へのチャレンジ

子供から教えてもらった自由な発想


 1994年8月、甲府で老舗のジュエリー会社石川宝石が倒産する。バブル経済のあおりを受けての倒産だった。その3ヶ月ほど前、松沢さんはデザイン室長として、仕入れ関係の整理など最後の仕事をしていた。石川宝石に入って15年、デザインという仕事をかなり自由に面白くさせてもらった会社。それなりに愛着がある会社だった。『俺が何か悪いことをしたのか!』残務整理をしながら松沢さんの脳裏には遙か昔の出来事が浮かび上がった。

「小学校の時から絵が好きでわりと上手かったんですよ。それで何かのコンクールに学校を代表して出たんです。一堂に絵を並べて審査員の先生が私の絵の前に来て言ったことを今でも覚えています。『これは親に手伝ってもらったな』って。たいへんショックでした。確か、遠近法か何かでわりときっちりした絵を描いたんですね。もちろん、手伝ってもらってなんかいませんよ」

 こんなことがあって、松沢さんは早くから常識とか決まりごとを疑うようになる。大学でデザインの勉強をしたが、神社の鳥居に貼ってある千社札に興味を持ち、そんなデザインばかりを研究していた。また、東京でアパートを借りて住んでいたが、近代あふれる東京の生活には息が詰まり、定期を買って大学まで通ったりした。
 先生の言葉がよっぽどショックだったのだろう、自分の子供には絵の描き方は何も教えなかった。

「でもね、子供が自由に描いた絵はわりと技法どおりなんです。画面の外まで体が飛び出しているような絵で躍動感を現したりね」

 長年のわだかまりがこのとき解決する。自由な発想から生まれる生き生きした美しさ。それをあらためて子供に教えられてから、松沢さんの常識へのチャレンジは一層みがきがかかる。

 宝石業界にも、色の組み合わせとか石の取りあわせとか、昔からの業界の常識といわれているものがいくつかある。例えば、真珠やサンゴに色石を使ってはいけないと、かたくなに守って商売しているところがまだ多い。サンゴはとにかく丸い玉が一番。そういうものは一匁3万円とか4万円とかで金より高いという固定観念が先行して、それをわざわざカットするなんてもってのほかだということになっている。

 そういう常識を持った人が松沢さんのデザインしたものを見ると、ものすごいカルチャーショックを受ける。しかも、それがお客さんに喜ばれ、生産が間に合わないくらい売れていると聞けばなおさらだ。

「僕は、組み合わせてきれいだったらいいと思っているから、そんなことはあまり気にしませんね。組み合わせで新しいものができてくるんですから、可能性を否定する必要はないじゃないですか」

 こんなことを言う松沢さんも、以前は企業の中で、ある程度、常識を意識しながらデザインをしてきた。営業を交えた企画会議を通すためには、どうしても常識にしばられた。知らず知らずのうちに自由な感覚にあしかせがかかった状態になっていた。

 しかし、石川宝石の仲間とワイズを設立してからは、タブーを打ち破り、そしてその結果、『松沢安行』というデザイナーブランドが育ってきている。

 そこには経営者になったから利益を追及するんだという姿は見られず、逆に一貫してデザイン重視のカラーを打ち出してきている。企業の中にいたころより、もっとデザインとは何だとか、デザインに関してずいぶん考えるようになった松沢さんは笑う。

(続く)






最終更新日  Jul 4, 2010 11:12:47 AM

みなさま こんにちは
観光部の穂坂です。

やまなしジュエリーフェア開催中ですので、山梨のジュエリー産業はどうして誕生したのか?をおさらいしてみます。

なお、この歴史は、山梨県ジュエリー協会に教えていただきました。



 徳川時代までは、水晶の発掘は許されませんでした。そのため、自然に地表に露出したり山崩れ等によって採取されたものなど、世の中へ出た水晶の量は極めて少なく、それだけに人々に珍重されてきました。

 江戸後期になると、甲州の水晶原石が京都に運ばれ、京都の研磨職人の手によって磨かれ、堂上公卿の人々に愛寵されるようになりました。

 その頃、京都の玉商の店「玉屋」の番頭「弥助」が京都から甲州へ原石仕入れに来た折りに、金桜神社の神官社家の人達に水晶の研磨法を教え、それから「山梨の水晶産地」が生まれました。

研磨
写真提供:山梨県ジュエリー協会

 明治になって鉱山法が公布されて、明治10年頃から水晶の発掘が行われるようになりましたが、当時は国内各地から掘り出された水晶は少量で、水晶の最大産地は山梨の金峰山麓をとりまく鉱山群でした。

水晶鉱山
写真提供:山梨県ジュエリー協会

 一方、甲府の飾り業は江戸末期には、「甲府かんざし」として、銀の平打ちかんざしを中心に髪飾り用具とキセルなどを数軒の飾り屋が作っていたと伝えられています。

そして、明治26、7年頃のこと。日本最初のジュエリーの指輪は、甲府の市川松次郎氏が、水晶をくり抜いて作った指輪の内側へ金の輪を入れることを考案したのが始まりとされています。この水晶の金入り指輪は、当時の婦人達に喜ばれ、ひとつの流行となりました。


大正5年の「郷土資料」によると、甲府ではすでに水晶研磨が産業の中心となっていた様子が見て取れます。
水晶品製造業…183戸
職工…708人
製品…印材、飾り玉、カフスボタン、カンザシ、中指し、根かけ玉、眼鏡レンズ、帯止め、文鎮、中巻指輪、数珠等。







最終更新日  Jul 7, 2010 06:19:19 AM

Jul 1, 2010
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みなさま こんにちは
山梨県知事の横内正明です。


山梨は、かつて国内で最大の水晶鉱脈があったことから、現在ではジュエリーの約3割を生み出す日本一の産地となっています。

そんな山梨には、全国唯一の県立宝石美術専門学校があり、約30年で1000人以上のデザイナーや宝石職人を輩出してきました。あなたの街の宝石屋さんにも、本校のOB・OGがいるかもしれません。

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本日から1ヶ月間、ビタミンやまなしと楽天市場とのコラボレーションにより、皆様にやまなしのジュエリーの魅力を発信していきますので、どうぞご期待ください!






最終更新日  Jul 1, 2010 05:48:03 PM

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