2009/06/22(月)20:49
近江大津宮
淡海(あふみ)の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
心もしのに いにしへ思ほゆ
作:柿本人麻呂 万葉集より
この前、「陽炎(かげろう)」で柿本人麻呂の歌をとりあげましたが、本日も人麻呂の句です。
ということで、本日のお題は 「近江大津宮」(おうみのおおつのみや)
尚、昨日のお題は 「列島危機 Part2」 短編(の予定)フィクション
ご覧になってない方はこちらもどうぞ
本日も、またまたちょっと専門的になり、ムズイですが、ご容赦!
ムズすぎると思う方は昨日のに食いついてください。
新しい都の中核をなす近江大津宮は琵琶湖を見下ろす高台に築かれた。 天智称制2年(663)7月、百済救援のために派遣された我が国の水軍は、新羅の連合国・唐の水軍によって朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で壊滅的な大敗を喫した。
近江遷都の主な理由は、予想される唐・新羅連合軍の侵攻に対処するためだったとされているが、この遷都の理由はよく判っていない。 国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。
しかし、天智天皇が671年12月に崩御し、翌672年7月に壬申(じんしん)の乱で近江朝廷軍が敗れ、大友皇子が大津の山前(やまさき)の地で自害して果てたことで、新京はわずか5年半足らずで廃都となった。
都は再び飛鳥に戻り、大津京の建物は朽ち果てた。 その中心だった近江大津宮の所在も人々の記憶から消えて、長い間"幻の都"とされてきた。
1974年の暮れ、湖畔にほど近い住宅街で"幻の都"の遺構が見つかった。 667年から5年間、首都だった近江大津宮。 皇位継承を巡る壬申の乱を機に遷都となり、所在地すら論争になっていた。
造営した中大兄皇子、後の天智天皇は、日本初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作り、水時計「漏刻(ろうこく)」を導入した。 都は、渡来人も受け入れた国際都市だった。
尚、「漏刻」については過去ログ「時を支配する」参照ください。
「古里が輝いた時期があった」 歴史の知識でしかなかった天智天皇や歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)が、具体的な顔や姿をして浮かび上がる。
とりわけ心に響くのが、冒頭の巻三、二百六十六番「淡海の海」の歌。
人麻呂が、栄華を誇った都の変わり果てた姿を目の当たりにしたことを詠んだ歌です。
この「淡海(あふみ)の海」ですが、単に淡海(あふみ・おうみ)とも言い、「淡海(近江)の海」とも言う。 また浜名湖を「遠つ淡海」と呼ぶのに対し「近つ淡海」(京から近い淡水湖、の意味)とも言った。
「鳰(にほ・にお)の海」の古称もある。 形が琵琶に似ていることから琵琶湖と呼ばれるようになるのは、近世以降のことである。
ところが、次に「夕波千鳥 汝が・・・」とあるが、琵琶湖には千鳥はいない。
巻二、百五十三番に、
鯨魚(いさな)とり 淡海(あふみ)の海を 沖さけて 漕ぎ来る船辺付(へつ)きて 漕ぎ来る船・・・
とある。
読みはとなっている。 つまり、鯨が捕れる近江の海。 いくらなんでも琵琶湖では鯨は捕れない。
では、この「淡海乃海」は何処か?
中間過程は省きますが、どうやら「邑美郡邑美郷」(現在の鳥取県の海岸部)のようなのです。 「邑美(おうみ)」郡であり、その中の「邑美」郷のようなのです。
つまり、本題の「淡海(あふみ)の海 夕波千鳥・・・」も、一般的な訳の琵琶湖とは疑わしくなってくるわけです。
万葉の魅力、奥が深いです。
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なぜか大学からアクセスの多い別ブログ 更新しました
●別ブログ 6/8の新着は「皆既日食」
前回は「なりすまし 実証」 こちらも見てね