テーマ:携帯電話って・・・!?(411)
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かなり前の日記にケイタイ電話の本質的価値は「つながっている」ことと書きました。
だから「つながっている」ことを助長するサービスで革新が起きてきた、とも書きました。 メール、写メール、着メロ、着うた、などが「つながる」ことを楽しく、 便利にする機能やサービスたちです。 一方、単に着メロの和音数や、カメラの画素数を高めることは、 技術的にはすごいのだけれど、本質的な革新にはならない。 また、Javaなどのゲームも「つながっている」に関係ないので革新にはならない、 とも書きました。 そして、最近思うのです。 「つながっている」ことが本質的な価値であるケイタイ電話。 ケイタイ電話が鳴ることに結構、神経過敏になっている人はいませんか? 「つながっている」ことが断ち切れるのがイヤだ、だからケイタイが鳴ったことを 無意識のうちに、必死に聞き逃すまいとしている自分がいたりしませんか? 他人のケイタイが鳴っているのに自分のが鳴っているとつい思ってしまう。 鳴ってもいないのに、鳴っているような空耳を覚える。 メールはいつ見ても、いつ返事をしてもいいという時間制約がないのがメリットですが、 そのくせ、メールが来ると食事中でも、会話中でも、会議中でも見ちゃう。 そんなケイタイ中毒の人、いませんか? 本来は「つながっている」相手が重要なわけです。 恋人と、家族と、親友と、つながっていたいからケイタイが鳴るのを逃すまいと思うのです。 「つながっている」こと自体が重要なのではなく、相手を想うココロが重要で本質なわけです。 ですが、もはや本末転倒。 ケイタイが鳴っているを逃すまいという脅迫観念が一人歩きをし、 相手が誰であろうと、ケイタイが鳴ることにビクついたり、期待したりしてしまう。 こんな世の中は、人類史上初めてです。 手紙を待ち焦がれる、家の電話が鳴るのを待ち焦がれる、という文化はありました。 でも、それは恋人からだったり、都会で一人暮しをする子供からだったり、 あくまで気持ちの中に大きく存在しているのは、手段である手紙や電話ではなく、 相手です。ヒトです。 ところが今、ヒトのココロの中に大きく存在しているのは、自分のケイタイなのです。 使いこなし、オリジナルの壁紙で、お気に入りの着メロがなる、自分のケイタイです。 友達とのプリクラが貼ってあり、彼とおそろいのストラップがついているケイタイです。 相手は誰でもいいのです。 自分のケイタイがいつもそばにあって、そのケイタイが定期的に鳴ることが、 もはや普通の生活なわけです。 もう中毒ですよね。 だから、あまりケイタイが鳴らないとそれがストレスになる。 家の固定電話は、鳴らないからと言って契約を解除したり、イラツいたりしませんが、 ケイタイはイラツきます。ストレスです。 やっぱり自分にはケイタイはいらないと思って解除するヒト(中年の方など?)もいるのではないでしょうか? ケイタイのある生活。 これだけ普及すると、あらたなステージを迎えたようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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