テーマ:歴史を裏読み!(10)
カテゴリ:歴史を裏読みする!
前回からの続きですが、小川祐忠自体は結構能力のある人物だったように思えます。織田信長に下った際も、信長の旗本としてそこそこ重用され、なんと信長から「茶会開催」の許可までもらってます。これは、当時の信長家臣としては非常に名誉な事だった訳で、彼は信長にそれなりに認められていた証拠と考えて間違いないでしょう。
秀吉家臣時代にも、小田原征伐や朝鮮渡海で結構活躍して伊予今治7万石を拝領してますし、秀吉晩年の大行事である「醍醐の花見会」では、そうそうたる顔ぶれに混じり三番茶屋を建て秀吉一行をもてなしたようです。所謂、文武両道の人だったように見受けられます。 関が原の合戦後には、石田三成の居城である佐和山城攻略戦にももちろん東軍として参加して奮戦したんですが、残念ながら戦後あえなく領地没収の憂き目に(涙)。改易の理由としては「事前に通款を明らかにしなかったから」以外にも「領内悪政」「子供が石田三成と入魂」などあるようですが、要するに家康だって小川祐忠のあまりの運勢の悪さを嫌ったんじゃないでしょうか。「悪い運気を自分の所に持ち込んでくる家来」な訳ですから。彼を家臣にした主人は、全員あまり幸せではない死に方してます。現在だって、過去に入社した会社が片っ端から倒産する男をわざわざ社員として迎え入れたい社長なんていないと思います(苦笑)。なまじ、彼が有能な男だけに余計始末が悪いですね~。 小川祐忠は領地を没収された後は、京でひっそりとその短い余生を送り、関が原の合戦から1年もしないうちに死去したようです。まぁ、彼の場合赤座直保とは違い、武士を辞めてる訳ですから、家康の手の者に殺されたと言うよりは、失意のあまりって奴なんだと考えます。もっとも、息子の一人が京で両替商を営み大成功を収めたと言う事ですから、領地没収とは言っても、何らかの資産は没収されずに残ったんでしょう。生活面では不自由がなかった感じですから、案外平穏で心安らかな大往生だったのかもしれません。 それにしても、彼のような生き様はあまりにも悲しすぎてしかもロマンとか悲壮感とかそう言う所からもかけ離れている為、あんまり小説の題材にはならなそうな感じです。・・・って言うか、こんな人物の人生描いているとこっちまで気が滅入って来そうですから(苦笑)。まさしく諸行無常のひびきあり・・・って感じです。 強いて無理やり面白そうな題材見つけるとすれば、柴田家家臣時代に主人である柴田勝豊を調略したのが、関が原でお隣さんだった悲劇の名将「大谷吉継」その人だったようです。自分の主人である柴田勝豊を口先三寸で羽柴側に寝返らせた大谷吉継の事を、当時家老職にあった小川祐忠がその場に居合わせ、その事で嫌いだったと設定してもそれ程無理ではないと思いますね~。羽柴側に寝返った主人の柴田勝豊のその後もあまり幸せではなさそうな生涯でしたし。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010/03/28 10:35:51 PM
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