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madamkaseのトルコ行進曲

madamkaseのトルコ行進曲

Yaprak dokumu(落葉) その4


第57話

 売春宿の摘発で検挙された女としてネジュラの写真を見たアリ・ルーザは思わず新聞を取り落とし、愕然として椅子に崩れ落ちた。そして顔をゆがませて嗚咽を漏らした。
「なんということだ。ひたすらまじめに生きてきて、何一つ悪いこともしないのに、どうしてこんな目に遭うのだ、何という人生だ!」男泣きに泣きながらアリ・ルーザは堪えきれずに叫ぶのだった。 周囲の女達は悲壮なアリ・ルーザの心の叫びを聴いて胸を痛めたなすすべもなかった。

 釈放されたユヴァ・ペンションの女達が警察署の入り口から、寒空にキャミソールや薄物だけで震えながら出てきた。そしてネジュラにもディスコバーのチーフ、ウミットが迎えに来ていた。そこへ偽の客を装ってプナルの部屋に入った警部が出てきた。
「警部、これはとんでもない誤認逮捕ですよ、人権侵害だ」とウミットがネジュラの代わりに訴えた。
「いや、すまないことをした。だがあの場合、その場にいた女達を全員捕まえるしかなかったんだ。容疑は晴れた。さあ、もう行きなさい」
 2階の取調室から主犯のペンション経営者ジュリザがこれも釈放されて降りてきた。
「ちょっと、あんたのせいでひどい目に遭ったのよ、私。あんたなんかアッラーにのろわれてしまえばいいわーっ!」とネジュラは悔しげに傲慢なジュリザを罵った。
「ふん、目をかけてやっただけなのに。お金の必要があったらまた私に電話していいからね」女主人はネジュラを鼻であしらいながら出て行った。

 アリ・ルーザの家では、彼と妻のハイリエがかえすがえすも「あのときネジュラを連れて帰れたらよかったのに、と交互に言うので、レイラが聞いた。
「え? ネジュラを訪ねていったの?」
「行ったけど、いなくて会えなかったのよ。ケシケ、会えていたら・・・」
 これを聞いたレイラは複雑な気持ちになった。自分を苦しめたネジュラを、両親はこっそり訪ねていたのだ。アリ・ルーザは出かけてくる、と言って席を立った。フィクレットが表は寒いと止めたが、アリ・ルーザは耳を貸さず厚手のジャンパーを着て出て行った。
「ネジュラはみんなの顔に泥を塗ってくれたわ」と怒るレイラに、フェルフンデが「きっと何かの間違いよ」とたしなめた。ハイリエが夫を案じて涙ぐんでいるのでフィクレットも上着を着てあとを追った。粉雪の舞う中、アリ・ルーザはタクシーを拾っていずこかへ走り去った。

 アダパザールでは、タフシンがフィクレットをイスタンブールまで迎えに行く気になっていた。例によって姑のジェヴリエは面白くない。
「タフシンや、今夜のおかずはなんにしようかね」
「いいよ、別に作らなくとも。フィクレットが戻ったらみんなでどこかに食べに行こう」
「あーあ、すっかり慣らされちまって、ハヌムエフェンディは外食がお好きだ。妃殿下のお戻りには、玄関から道まで赤い絨毯でも敷くのかい。バンドを雇って歓迎の音楽でも演奏するのかい、え? トゥーべトゥーベ!」
 相変わらずの母親の減らず口に、タフシンはうんざりしながら車に乗った。彼は最初アリ・ルーザの家に電話するが、レイラが出てフィクレットは外に出たという。どこへ行ったのかと聞いても答えを濁して埒が明かない。次に従姉のネイイルに電話すると、アリ・ルーザ家でちょっとまずいことが起こったのだというだけでこちらもはっきりしない。タフシンは車を発進させイスタンブールに向かった。ネイイルも「ああ、もう居ても立ってもいられない。ハイリエのところに行くわ」とセデフの制止も聞かず隣家を訪ねたのである。

 警察から戻ったジュリザと雇いのマネージャーが、鎖で封印された表の扉を開けたところに、タクシーを乗りつけたアリ・ルーザが駆け込んでジュリザを捕まえた。
「私の娘を何とひどい目に合わせたんだ。娘はどうした」
「私が知るもんか」
「お前のやってきたことを正直に言え! さもないと許さんぞ」
「あの子は何もやっちゃいないよ。警察でもちゃんとそう言ったから釈放されたわ」
「しかし、何という女だ、貴様!」
 同じ頃、フィクレットは警察を訪ねていた。担当の警部からネジュラの容疑が晴れて釈放されたこと、勤め先で聞けば一時的に身を寄せているところがわかるだろうと、勤め先のアドレスを教えてくれた。
 ウミットの家でネジュラは彼とその恋人から慰められ、家に電話するよう勧められる。そして気を利かせて、2人は席を外してくれた。その頃アリ・ルーザは冬の荒れた海を眺めながら、放心状態で1人ベンチに腰掛けていた。

 ネジュラは思い悩んだ末、家に電話をかける。電話口に出たのはレイラだった。
「アロー」とレイラが呼んでもかけてきた相手は口ごもっている。
「レイラ? 私よ。私は、何もしていないわ」ネジュラはほとんど泣き声だ。
「馬鹿よ!」
「悪いことは何もしていないわ、お父さん達にそれを・・・」
「馬鹿!」
 家にいたハイリエ、ネイイル、セデフ、そしてフェルフンデが顔を見合わせた。
「ネジュラよ、きっと」と4人は目顔で頷き合った。
 馬鹿、としか言わないレイラをいぶかしんだフェルフンデが受話器を取り上げた。
「ネジュラ? フェルフンデよ。どこにいるの?」
「フェルフンデ、私は何もしていない。悪いことは何もしていないわ。お父さんとお母さんが恥じるようなこと、決してしていない。それを伝えてほしいの」
「了解よ。でもその前にどこにいるのか言いなさい、ネジュラ!」
 フェルフンデの呼びかけにも関わらず、電話はぷっつりと切れてしまった。

 家の前でタクシーを降りたフィクレットは、すぐあとに到着したタフシンと出会った。
「フィクレット、どうしたというんだ。家に電話しても、ネイイルに電話してもはっきりしない。何があったんだ」
「ええ、中で話しましょう」フィクレットはタフシンを促して家の中に入った。
 アリ・ルーザはまたちらつき始めた雪の中を帰途についた。いつものカーヴェの前に差し掛かると表にゴミバケツを出しに来たアフメットと目が合った。彼は目を伏せてすこすこと店の中に入ってしまった。店の中で新聞を読んであれこれ言っている客の手にした新聞をすべて回収し、「今日は俺の店で新聞を読むのは禁止だ!」と大声で宣言、アリ・ルーザの娘の事件を隠したのである。

 アリ・ルーザは家に戻った。フィクレットがネジュラの事件のあらましをタフシンに説明した。げっそりと疲れた顔で戻ったアリ・ルーザを心配し、着替えをするようにとハイリエが勧める。アリ・ルーザ夫婦が2階に上がろうとするとフェルフンデが「ネジュラから電話がありました」と告げた。
「ネジュラは何もしていない、両親が恥じ入るようなことは決してしていないと言っていました」
「そうか、ありがとう。もともと信じてはいないよ、あんなこと」とアリ・ルーザは答えた。
2階の部屋についていった。それを機にネイイル・セデフ親子も帰り、レイラもフェルフンデもそれぞれの部屋に引き取って、サロンにはフィクレットとタフシンが残った。

「なんとも運が悪かったなあ」とタフシン。
「でも私は妹を信じているわ、そんなことをする子じゃないもの。タフシン、ネジュラが見つかったら、一時私達のうちに預かってやりたいと思うんだけど・・・」
「え、うちで預かるのか。 フィクレット、もちろん、俺もネジュラを信じているよ、絶対に。ただなあ、俺達の町も狭いところだし、新聞にまで出てしまったのではなあ、うちにも若い娘がいることだし・・・」
 タフシンがそこまで言うとフィクレットは顔色を変えて台所に引っ込んでしまった。
「フィクレット、すまない、気に障ったら許してくれ」タフシンは慌てて追いかけたが、フィクレットは不快な顔で何も答えなかった。

 ネジュラはウミットの家で1人、逮捕されたときのショックを思い出しては泣いた。プナルが叫んだ「ポリス、ポリ~ス!」という声がまだ聞こえてくる。ネジュラは思わず耳をふさいで身悶えた。
 家では自分の部屋にこもって考え込んでいるネジュラにジャンから電話がかかった。
「気が滅入るんじゃないのか。外に出たかったらどこかで逢ってお茶でも飲まないか」
「いいの、今日は出たくない。ありがとう」

 サロンでは、着替えてさっぱりしたアリ・ルーザとタフシンが話し合っている。
「災難でしたね。とりあえず今日は一旦帰ります」とタフシン。
「いやいや、わざわざ来てくれてありがとう。フィクレット、お前はいつ帰るんだ?」
 父の顔をちらと見たフィクレットはタフシンに言った。
「あなた、もう帰って。私は行かないわ」
「フィクレット・・・」にこりともしないフィクレットを見てタフシンは一瞬、悪い予感を抱いた。
「あとしばらくいてやりたいの、2日か3日・・・」
 答えを聞いてタフシンは内心胸を撫で下ろした。
「帰るときは連絡すれば迎えに来るよ」
「ええ、じゃあ気をつけて」
 しょんぼりと門までの坂を登って行くタフシンをフィクレットは玄関まで見送った。振り返ったタフシンに頷いてみせるフィクレット。タフシンはほっとして、口元をほころばせながら帰っていった。

 フィクレットは両親にネジュラを探そうといった。「でもどうやって?」とハイリエは泣きながら言う。「ネジュラの勤め先でいまどこにいるかは教えてもらえるわ。私が探しに行くわ」とフィクレット。
台所ではフェルフンデがアイシェに夕飯を食べさせている。サロンに出てきたフェルフンデは泣いているハイリエの横にすわり、姑の嘆きを半分引き受けようとするかのように、その手に自分の手を重ね、頷いて見せた。
「おおお、あの子はどうしているかしら、かわいそうなネジュラ・・・」
「ハイリエ、もうそれ以上言うな」
 アリ・ルーザも辛いのだった。

 レイラはずっと2階の部屋にこもっている。そこにフェルフンデがやってきた。
「レイラ、灯りもつけずに何してるの?」
「あ、明るすぎるわよ」
「暗い中にいるから気持ちも暗くなるのよ。フィクレット姉さんとシェヴケットがネジュラを探しに行ったわ。ねえ、レイラ。いい加減にネジュラを許してあげなさい。そりゃ、あなたを辛い目に合わせたかも知れないけど、妹じゃないの。こんなに辛い目に遭ったんだからもう罪は十分償ったと思ってやって。レイラ、もう一度言うわ。ネジュラが家に戻れるように許してやって」
 フェルフンデは懸命にレイラを説得した。それはかつて嫁に来た自分を冷たく扱った義父母への復讐に、オウスを使ってレイラとネジュラを仲違いさせ、今日の事件のもとを作った自分への贖罪の叫びでもあった。

 ベイオールは今夜も賑わっている。とある細い路地の先に、ウミットの家があった。フィクレットはシェヴケットと一緒に家々の番地を見ながら歩いていた。
「あ、この1軒先だわ。シェヴケット、あなたも来る?」
「姉さん、俺はどうしてもまだネジュラには引っかかるものがあるんだ。あんたが行ってきてくれよ。俺は外で待ってるから」
 シェヴケットが言うのでフィクレットは1人で階段を登り、2階のウミットの家の扉を叩いた。ネジュラはどなたですか、と言いながら扉を少し開いてみた。
「ネジュラ?」扉からのぞいたのはフィクレットだった。
「あっ、フィクレット姉さん! 姉さん、姉さん」
 ネジュラはどっと溢れてくる涙とともに、フィクレットの肩に抱きついた。姉妹の長い時の空洞はいま一気に埋められようとしていた。ソファに座り、フィクレットは泣きやまぬ妹を優しく抱きしめてやった。
「1人で来たの?」
「シェヴケットも来たのよ。でも外で待っているわ」
 ネジュラは窓を開けてみた。シェヴケットがじっと立っている。あの日からもう長いときが過ぎていた。あの日、というのは・・・
 ネジュラが婚約までした相手ジェムをすっぽかし、戸籍上は姉レイラの夫であるオウスと駆け落ちし、ドイツに高飛びしようとしていた矢先に、空港に駆けつけてオウスに追いついたシェヴケットが殴りかかった。そのとき空港警備員に助けを求め、あろうことかシェヴケットを悪者にして取り押さえさせたのは他ならないネジュラだったのである。
 そしていまだにオウスと切れずにいるネジュラが、売春宿の摘発で誤認とは言え逮捕され、事件に巻き込まれて家族を悲しませていることが、潔癖な彼には我慢がならないのだ。

 同じ頃家ではレイラが幼かった頃、年の近い姉妹としてこの上なく仲の良かったネジュラとの日々を思い出して泣いていた。成長してから、こんな敵味方のように憎み合うなんて誰が想像できただろうか。
「何があっても兄弟姉妹は、見捨てられないもの、忘れられないものなのよ」とフィクレットはネジュラを抱きしめながら言った。
「フィクレット姉さん、私はすごく後悔しているの。でもレイラは許してくれないだろうし、許してくれるだろうなんて期待してもいないわ。ただお父さんお母さんには悪かったと・・・」
「何を言うの、ネジュラ。お父さん達は何度も何度もあなたの手紙を読み返しているそうよ。いくら離れても親子きょうだいなのよ、家族なのよ。傷ついた心を癒しあうのが家族でしょう? 」
 フィクレットの優しい言葉はネジュラの心の傷にしみ込んで行く。ネジュラはフィクレットに十分癒されていた。

 一方、アダパザールでは戻ってきたタフシンに母親のジェヴリエがしつこく迫っていた。
「さあ、説明しておくれ。フィクレットのうちで何があったの。お前達は喧嘩でもしたのかい。フィクレットはそれで来るのか来ないのか。ああ、いっそ来ないほうがいい。ずっと向こうにいさせな」
 タフシンは絶え間なく喋り続ける母親に嫌気がさしてため息をつきながら寝室にこもってしまった。寝室はフィクレットが出がけにきれいに片付けてあったが、タフシンはもう何ヵ月も寝ていない自分のベッドに腰かけて、フィクレットの枕にそっと手を置いた。
 いくら最初に夫婦の交わりはしない約束だったからとはいえ、正式の妻として同居しながらいまだに手を触れることさえ許さないフィクレットである。タフシンはいつも彼女が横たわるあたりに頬を押し付けて、かなわぬ思いにじりじりと胸を焦がしながら、フィクレットの面影をたぐるのだった。

 フィクレットに力づけられてネジュラは次第に本来の勝気で陽気な一面を取り戻していた。
「私はもうしばらく1人で努力するわ。そう簡単にはつまらないところに踏み込んだり、降参して倒れたりはしないつもりよ」
「そう、その調子よ。ネジュラ、今日のところはこれで帰るわ。あなた、お金持ってるの?」
 そう言いながらフィクレットはハンドバッグから何がしかを取り出して、ネジュラが受け取らないのでテーブルに置き微笑んだ。
「ありがとう、フィクレット姉さん」とまたも涙ぐむネジュラ。別れの挨拶をして階下に下りたフィクレットと、外で待っていたシェヴケットをネジュラは窓から顔を出して見送ったが、シェヴケットはとうとう振り返らなかった。実を言えば彼の目は潤んで、振り返りたい気持ちを必死に抑えていたのだった。ネジュラもまた遠ざかる兄に心で詫びつつ、滂沱と流れる涙を拭いきれないでいた。

 ジャン弁護士の家。オヤ夫人が夫の帰りを待っている。玄関が開いてジャンが戻ってきた。
「お帰りなさい、あなた。お腹は空いていない?」 「いや、ヤマンのところで食べてきた」
 ジャンは妻の口から最近初めてそんな言葉を聞いたので驚いて彼女を見つめた。
「話があるのよ、あなた。あなたにはいま、誰かほかの人がいるの?」
「・・・いや、いないよ」
「だったら聞いて。ヤームールはまだ小さいわ。あの子がせめてもっと大きくなって物事の判断がつくようになるまで離婚は待って。たった9歳よ。親達が別々に暮らし始めたらなんて説明するの。ヤームールに私達がもうこんな状態だなんて、感じさせたくないのよ、嘆かせたくないの」
「・・・その通りだ。君に同意するよ」
 ジャンは言葉少なに頷いた。オヤ夫人も大きな目を見開いて夫を見つめた。
「聞いてくれてありがとう、ジャン・・・じゃ、お休みなさい」
「うむ、お休み」

 アリ・ルーザの家のサロンではフィクレットとシェヴケットの帰りをみんなが待っていた。玄関に足音が聞こえたのでフェルフンデが出迎えた。
「お帰り、どうだった。あの子に会えたの?」と待ちきれない思いでハイリエ。
「ええ、お母さん、ネジュラは元気を取り戻していたし、心配いらないわ」
 レイラは2階の階段の手すりにつかまりながらサロンのみんなの話を聞いていた。みんながネジュラのことを心配している。私の手前、誰もネジュラを連れてこられないんだ。私はどうしたらいいの? レイラは泣きながら部屋に駆け込んだ。泣いて泣いてレイラはとうとうあることを決意した。

 朝になった。庭にはうっすらと雪が積もっている。シェヴケットは寝室でフェルフンデに借金を頼み込んでいた。
「どうしても期限の迫った借金の返済に必要なんだ。お前の金を貸して貰えないか」
「シェヴケット、あれは本当に母親が送ってくれたものよ。私の正当なお金よ。あなたの借金のために使えないわ。自分で都合してよ」
「何だと。やっぱりお前って女はそういうやつなんだ。わかったよ、もうこれからは何があってもお前には頼まない、ああ、何があろうとだ!」
 シェヴケットは乱暴にドアを閉めてサロンに出てきた。
「あ、シェヴケット。朝ごはんが出来ているわよ」とフィクレットが声をかけると彼は首を振って遅れそうだからと言いながらそそくさと出て行った。

 アダパザールからタフシンがフィクレットに電話をかけてきた。
「君を傷つけて悪かった。勘弁してくれ。アダパザールには帰ってくるよね」
「ええ、あとしばらく家にいたいの」
「そうか、いいよ。帰ることになったら迎えにいくよ」
「ありがとう。じゃあ、子供達にキスしておいてね。またね」
 タフシンが受話器を置くと、またまたジェヴリエがそばで聴いていた。
「おーおーおー」とジェヴリエ。タフシンはちらと母親を見ると台所に行ってしまった。ジェヴリエは気が治まらず、食卓の支度をしていた孫娘のデニズに訴える。 

「ちょっと、デニズ! 私の倅はどうしたんだろう。電話をかけちゃあの女に、悪かったよ、謝るよ、いつ帰ってくるんだい、なんてへこへこしてさ。あーああ、いい加減甘やかしてるよ」
「おばあちゃんたら、みっともないわよ。いいじゃないの」
 タフシンが後ろに立っていたのでジェヴリエは慌てて口をふさいだ。
「おふくろ~!」さすがにタフシンもむっとして母親をにらんだ。
「お父さん、フィクレット姉さん、いつ帰ってくるの。私は待ってるから」
「うん、フィクレットは帰ってくる。いつかは分からないが、必ず帰ってくるよ」

 アリ・ルーザ家では朝食が始まった。
「新聞、来てる?」とフェルフンデがアリ・ルーザの読んだあとの新聞を取り上げた。
「さあ、今日はどんな事件が載ってるかしら!」
 アリ・ルーザが首を横に振りながら「フェルフンデ・・・もうそんな話はたくさんだよ」と言った。みんながハッとしてフェルフンデを見た。フェルフンデのいつもの癖が出たのだ。彼女はそれに気がつくと素直に首をすくめて「ごめんなさい」と詫びを言った。以前のフェルフンデだったら唇を尖らせて席を立つところだ。フェルフンデは自らが傷ついて、初めて人の痛みを知ったのである。

 ネジュラはその朝、大学に行く支度をして家を出ようとしたが、ウミットの彼女を見ると玄関から戻ってきて手袋やマフラーを外し座り込んだ。
「大学、行きたくないわ。きっとみんながああだこうだというに違いないもの」
「ネジュラ、じゃあ、今日は行かなくてもいいわ。でも大学を途中で放棄しちゃ駄目よ。それこそ一番間違いを犯したことになるわよ」
 彼女はネジュラに必死の忠告をするのだった。

 刑務所の独房に逆戻りしたオウスは、不衛生な汚いベッドに寝転がって絶望的な思いでいた。看守が「外で運動をしろ」と迎えに来た。中庭に出て行くと、ボスが寄ってきた。
「おい、そこの爺、この高貴なお方にベンチを譲ってやれ。座布団も差し上げるのだ」
 年寄りの受刑者が空けたベンチに無理やり座らされたオウスに、新聞が差し出された。えい、と払いのけた拍子に新聞はバサッと下に落ちた。そこにはあの、捕まったネジュラの写真が出ていたのである。気が狂ったようにオウスはその新聞をビリビリに破き捨てた。また独房に戻され、オウスは悲しみと絶望で自らを律することが出来ず、泣きながらマットレスや鉄製のベッドを投げ飛ばして暴れるのだった。

 レイラが座った窓辺からも庭の木に積もった雪が見える。レイラはまたぼんやりとしていた。そこに心配したアリ・ルーザがレイラの様子を見に来た。アリ・ルーザはハッと胸を突かれた。振り乱した髪、焦点の定まらない目つき、たくさん泣いたらしく、目は真っ赤だ。レイラはまた泣きながらアリ・ルーザに訴えた。
「お父さん、行ってネジュラを連れてきて。ネジュラをこの家に連れてきてやって!」

 家族にとって、また新しいページが開かれようとしていた。だが、このページを真っ白なまま、破かずに汚さずに、めくり続けて行かれるのだろうか、果たして・・・。


第58話

 レイラがネジュラを連れてきて、と言い出したので、アリ・ルーザはよくよく考えた末のことかどうか案じて、何度も聞き返し本気かどうか念を押すのだった。レイラには思慮の浅い一面があったからだ。
「お父さん、私は本気で言っているのよ」
「うむ、お前がそこまで言うなら・・・」
 階下のサロンで女達が2階の様子を気にしている。下りてきたレイラは朝食もそこそこにオヤ夫人のカウンセリングに間に合うように出て行った。フィクレットは彼女を見送り、ハイリエが呼んだので2階に上がっていった。

 ヤマンのオフィス。フェルフンデは彼に電話をした。
「ヤマン・ベイ。実はシェヴケットに大きな借金があるんです。大変な迷惑をかけますがぜひ助けてやってください。でも私が頼んだなんて伏せておいてください。」
「もちろんだとも。フェルフンデ、オウスのことでは私も君に助けてもらったんだ。何でもするよ。で、いくら借金があるんだね?」
「35,000YTLだそうです」
「わかった。私がすぐに都合するから君も安心したまえ」
「ありがとうございます!」
 フェルフンデはこれでシェヴケットが救われると思い、胸を撫で下ろした。

「どうしたの、みんなで2階に上がってしまって」とフェルフンデも上がってみると、2階の中央にあるソファで、アリ・ルーザ夫婦とフィクレットが深刻な顔で相談している。
「あら、みんなここにいたの? どうしたのかと思った」
「フェルフンデさん、レイラがネジュラを家に連れてきてくれと言うんだ」とアリ・ルーザ。
「どういう風の吹き回しで考えを変えてくれたのかしら」フィクレットも首をひねっている。
「オ~フ、とにかく早くネジュラをこの家で見たいわ、オフ」と、ハイリエが溜息をつきながら言った。
「それはそうだ。迎えに行こう」
 アリ・ルーザが言うと、フィクレットも一緒に行くという。フェルフンデの頬にも笑みが浮かんだ。
<そうか、レイラは私の説得を聞いてくれたんだわ・・・>
 以前のフェルフンデだったら鼻高々で「私のお陰よ」というところだが、彼女はかなり謙虚になりつつあった。

 その頃ネジュラはウミットの家で引きこもり、悄然としていた。そこに電話がかかってきた。オウスの息子を産んで退院したジェイダからだった。父に内緒で母が援助し、オウスの家に戻ったジェイダは苦境から救われたのである。温かなゆりかごの中で無心に眠る赤子を眺めながら、ジェイダは新しい携帯電話で真っ先にネジュラの消息を尋ねたのだった。
「ネジュラ、私よ、ジェイダよ。どこにいるの? 元気?」
「ええ、まあ、元気よ。あなたと坊やは?」
「元気よ。息子もとても順調よ。ネジュラ、こうしていられるのもみんなあなたのおかげよ。あなたも知っているわね、私、一時は絶望して赤ん坊を産めるとさえ思えなかったわ。励ましてくれて、あんなに助けてくれたあなたのおかげよ。ネジュラ、あなたに何かあったら、いつでも私がいることを忘れないで。今度は私が恩返しする番よ。忘れないでね、きっとよ!」
「ありがとう、ジェイダ。体を大事にしてね」

 その日イスタンブールは冷え込んでにわか雪が降っていた。買い物帰りのネイイルがもと領事と出会い、話し込みながらカーヴェの前にさしかかる。アフメットが出てきた。3人の話はついつい、ネジュラのことでアリ・ルーザが落ち込んでいるに違いない、というところにたどり着く。
「何か自分達に手伝えることがあるだろうか」とアフメットが言うと、ネイイルは「私がこれからアリ・ルーザの家に行って様子を見てくるわ。一刻も早く行かなきゃ」と、そそくさと男達に別れを告げ、帰途を急いだ。そしてアリ・ルーザ家のサロンでは友人達が噂したように夫婦がまだ深刻に悩んでいた。

 ジャン弁護士の家ではオヤ夫人がレイラの来訪を待っていた。10時30分のランデブー(アポイント)である。オヤ夫人の心底では複雑な悲しみが渦巻いていた。チャイムが鳴り、レイラがやってきた。レイラにはオヤ夫人の心境を読み取ることは出来ない。ネジュラを家に連れ戻すように父親に頼んだこと、許す気になっていることなどを語り始めた。
 その頃シェヴケットはすでにミタット氏への返済期限が過ぎても金の工面がつかないことで悩んでいた。そこにヤマンから電話が来た。
「シェヴケット、君は高利貸のミタットに負債があるらしいね。私に君の口座番号を教えてくれ。君には入り用の金があるはずだ」
「いや、ヤマン・ベイ・・・なんとかなりますから」
「遠慮はいらない。私もわけは聞かないのだから、君もだまって口座だけ教えてくれ。いいね?」
 斜め向かいのギュルシェンがこちらを見ている。フェルフンデの差し金であるのは明確だ。シェヴケットは2度3度断ったが、もとより自力で大金を都合できるわけもない。ついに自分の口座番号をヤマンに知らせたのだった。

 ヤマンの部屋にジャンが訪ねてきた。オウスの再収監の経緯を知らせに来たのだった。そのオウスは刑務所の独房内で大暴れしたため、再び嫌っていた大部屋に移された。看守に抗議したが「規則だ」と一蹴され、仕方なく以前の2段ベッドに歩いて行くと、ボスのタラットがそばに来た。
「おお、アルカダッシュ! またまた出会ったなあ。シャバの空気を吸ったのも束の間、すぐにご帰還あそばしたってわけだ。何かあったのか?」  ※アルカダッシュ=友達、仲間
「ほっといてくれ」
「おいおい、俺はムショの先輩としてお前さんのお役に立ってやろうとしているんだぜ。おい、あの新聞を持ってきてみろ」
 手下が昨日オウスの大暴れの原因を作った新聞を持ってきた。タラットは無理にもオウスにそれを見せようとした。
「やっと読めたよ。昨日大暴れしたのはこの写真を見たからだな。この娘、いつかお前に面会に来た子だろう」
 タラットがそう言ってもオウスはもう返事もしなかった。

 ネジュラはウミットの家のソファで毛布をかぶって鬱々としていた。そこにウミットと彼女が外出する前に顔を出した。
「あらっ、まだ寝てるの。駄目よ、考え込んでいちゃあ」
「その通りだよ、ネジュラ。お前がその毛布を被っているのをもう一度見たらこの家から追い出すぞ」と笑いながら言うウミット。いい友達・・・ネジュラはじんとしながらうなずいた。

 ジャン弁護士はヤマンの会社を出た後、レイラに電話をかけてみた。レイラはまだオヤ夫人の部屋にいたので話をすることは出来なかった。銀行ではシェヴケットが接客している。ヤマンに援助してもらえることになり、気分も軽くなって明るい顔つきである。そこへ支店長がドキュメントを持ってギュルシェンにちらと見せた。蛍光ペンで線の引かれた欄には、シェヴケットの口座に大金が振り込まれてきたのが表示されていた。
 シェヴケットが席を立つとギュルシェンはすぐにフェルフンデに電話した。
「あなたが頼んだのね。さっきヤマン氏からシェヴケットに入金されたわ」
「ええ、私が頼んだのよ。シェヴケットが窮地に陥ったのを見殺しには出来ないわ」
 フェルフンデはフィクレットに、シェヴケットの借金がとりあえず解決したことを告げた。書斎ではアリ・ルーザとハイリエがネジュラをどうするか相談していた。

 レイラがオヤ夫人のカウンセリングの帰り道、すずかけの並木を歩きながら自分の言葉を反芻している。ネジュラはウミットに起きると約束したものの、いろいろなことが胸に去来してぼんやりと時を過ごしていた。
 刑務所大部屋の2段ベッドの上のオウスもうつろな目をしてひじ枕で横たわっている。タラットがそんなオウスを見ていた。そしてオウスのそばによってきた。
「なんだよ」とオウス。
「お前の彼女があんなことをするとは思えない。何かの間違いだろう。これについちゃあ、ちっとばかり協力してやりたいがどうだ。俺はな、アフタポット(蛸)のタラットとあだ名されるくらい腕が長いんだぜ。」 ※腕が長い=遠いところから命令しても思い通り動かすことが出来る。
「ごめんだ。助けなんか要らない」
「馬鹿なヤツだ。ま、お前に俺の言うことを聞く気がないなら勝手にしろ」
 タラットは手下の1人を呼んだ。
「オウスの彼女の復讐の手助けをしてやれ」

 家では戻ってきたレイラが、オヤ夫人にネジュラについて話したことを両親に説明している。
「ネジュラはいま、一人にしておいては駄目だわ。それにネジュラは私にとってはもう敵対する意味がないわ。あなた方の懐の鳥にしてやって」
※懐の鳥=窮鳥懐に入らずんば猟師もこれを撃たず。
 アリ・ルーザとフィクレットが迎えにいくことで相談がまとまった。そしてシェヴケットは自分達の部屋に籠って、借金地獄から救われた安堵と、それも妻のフェルフンデの差し金だという嫌悪感でジレンマに陥っていたのである。

 ウミットの家で、気を取り直して毛布を畳み、着替えも済ませて軽食をとろうとしているネジュラに電話がかかってきた。心配したウミットからである。
「大丈夫よ、起きたから。少し元気が出たわ」
「それはよかった。実はこっちが立て込んでいてひどいんだよ。手伝いに来られるかい?」
「わかったわ、支度が出来たらそちらに向かうわね」 ネジュラは電話をおいて出る支度をしようと立ち上がった。そのとき、チャイムが鳴った。
「どなた?」
「私よ、フィクレットよ」
 ネジュラがドアを開けると、フィクレットの後ろに苦虫を噛み潰したような顔ながら懐かしい父が立っていた。ネジュラは一瞬凍りついたように棒立ちになったが、次の瞬間アリ・ルーザに抱きついた。涙がとめどなく頬を伝わり、ネジュラは父の肩に顔を埋めて泣くだけ泣いた。アリ・ルーザも堪えきれずネジュラを抱きしめて男泣きに泣いた。
 アリ・ルーザ家では部屋の灯りという灯りを灯したレイラが窓の外を眺めている。いざ父と姉がネジュラを迎えに行ったのを見ると、心が騒いでならないレイラだった。

 その頃、未亡人ジュリザの経営するユヴァ・ペンションに屈強な若い男2人が訪ねてきた。ジュリザが応対に出ると片方の背の高い男がいきなりナイフをかざしてジュリザの髪をつかんだ。
「キャーッ、何をするの!」
「自分の胸に聞くんだな。お前のせいで罪もないのにひどい目に遭ったネジュラの代わりに挨拶に来たのさ。ムショの中から、タラット兄貴がお前さんによろしく言ってるぜ。あの子はタラット兄貴の大事な友達の彼女なんだ。せいぜい後悔しやがれ、分かったか!」
 男は言い終わるか終わらぬうちに、有無を言わさずジュリザの両頬を深く切りつけて、レセプションの男を抑えていた仲間と共に出て行った。流れる血を見てジュリザは「キャーッ」と叫び、苦痛にもがきながらその場に倒れた。

 ウミットの家でアリ・ルーザがネジュラに「さあ、帰ろう、家に。レイラがお前を待っているんだ。ネジュラを連れてきてと言ったのはあの子だよ」と促している。ネジュラは「駄目よ、私にはレイラの顔を見る資格はないわ」としり込みするのだった。
 いくら言っても聞かないのでアリ・ルーザはとうとう「勝手にするといい、これ以上お父さんは無理強いしないから」とむっとして席を立った。フィクレットも慌てて後を追う。窓から覗くと父は振り向きもせずぐんぐん帰っていく。ネジュラの頬をとめどなく流れる涙。帰りたい思いとレイラへの意地がぶつかり合って彼女の胸は波立っていた。

 アリ・ルーザとフィクレットがなかなか戻らないので、家ではハイリエとフェルフンデが心配していた。シェヴケットはフェルフンデに救われたことが気に食わず1人で部屋にこもってうじうじしている。レイラは2階の自室で、オヤ夫人に電話をかけた。
 ジャン弁護士の家ではちょうど娘のヤームールが父親に甘えながら寄りかかり、オヤ夫人も向かい側のソファで揃ってテレビを見ているところだった。レイラからの電話でオヤ夫人は席を立つ。レイラはネジュラを家に連れ帰ってほしいと父に頼んだものの、後悔の気持ちも起こっていたたまれない、と打ち明けた。
「でもレイラ、それはあなたが決めたことでしょう? ネジュラに出会ってみればもっと考えが変わって、うまくいくかも知れないじゃないの。受け入れてあげなさい」
 諭すように言うと、レイラは何か言いたそうだったがとりあえずうなずく。オヤ夫人は夫に「ちょっとそのあたりを歩いてきたいの」と言って外に出た。

 アリ・ルーザ家にアダパザールの娘デニズから電話がかかってきた。フェルフンデが出た。
「あの、うちの父がお邪魔していないでしょうか。まだ家に戻ってこないので、もしかしてフィクレット姉さんを迎えに行ったかと・・・あの、ちょっとおばあちゃんに代わります」
 ジェヴリエが相手がフェルフンデと聞いてすくみながら話をする。タフシンがイスタンブールに行ったのではないと知り、フィクレットはどうしているかと聞くと、外出中だという返事。フェルフンデもネジュラの話はタブーなので、それしか言いようがなかった。
愛想よく挨拶して電話を切った途端、ジェヴリエは「へええ、奥様はお出かけだとさ。こんな夜にどこをほっつき歩いているんじゃ!」と怒りまくる。その頃タフシンは街中の炉辺焼きの店でラクを飲みながらかなり酩酊していた。

再びアリ・ルーザ家。じりじりしながら待っている家族。アリ・ルーザとフィクレットが帰ってきた。だがネジュラはいない。
「あの子は帰らない、と言うんだ。レイラの顔をまともに見られないと言って帰ってこなかったんだよ。私達はできるだけのことをした。レイラ、お前もだ。当人が来ないというのだから仕方ないじゃないか」
 台所でチャイをいれるフィクレットのそばにフェルフンデが手伝いに来た。
「でもこれでよかったのかもしれないわ」とフェルフンデが言うとフィクレットもそうね、とうなずいた。
「そうだわ、さっきアダパザールから電話があったわよ。タフシン兄さんが帰ってこないんだって。ほら、私がチャイは運ぶからあなた、電話してみなさいよ」

 フェルフンデがチャイを持ってサロンに行った後、フィクレットは家の電話からタフシンの携帯にかけてみた。タフシンは何度も家から電話がかかるので無視していたのだが、ふと画面を見るとアリ・ルーザ・べイと出ていたので慌ててボタンを押した。
「もしもし、タフシン? あなたどこにいるの。家でみんなが心配してこちらへかけてきたのよ。まあ、お酒を飲んでいるのね」
「俺は君がいないから一人で飲んでるのさ。フィクレット、聞いてくれ。俺は君が好きなんだよ、わかるか、フィクレット!」
「タフシン、酔っ払っているのね。早く家に帰ってあげて」
「あーあ、俺が君を好きだと言っているのに、君は酔っ払い、と言うのかい」
「ね、そのことはあとで話しましょうよ」
「へっ、もういいよ。君とはもう話す気なんかないよ、ほっといてくれ!」
 タフシンは電話を切ってしまった。フィクレットは真剣な彼の言葉にもちろん悪い気はしなかった。

 ネジュラがウミットの家を出てディスコに向かう頃、客の立て込んだバーではウミットがきりきり舞をしながら1人で働いていた。そこに大男の2人組がやってきた。
「ネジュラって子はどこにいる」と1人がカウンターに乗り出して聞いた。
「そういう子はいないよ」ウミットはとっさに嘘をついた。
「てめえ、ふざけんじゃねえ!」
大声で叫ぶ男の声を聞きつけ店の警備員も飛んできた。たちまち警備員をねじ伏せた男達は、ウミットにもナイフで頬を切りつけた。ほとばしる鮮血の中にウミットが倒れた。店のオーナーも駆けつけた。店内の客達は恐怖におののきながら片隅に逃げている。
「ネジュラに言え、ムショの彼氏からセラームがあるとな」 ※セラームがある=よろしく言う。
 男達は肩をそびやかして階段を下りていった。ちょうど下で男達と入れ違いになったネジュラは、なにごとかといぶかしげな表情でディスコの入り口まで来て見ると・・・ウミットが顔から鮮血を流して従業員の手当てを受けているところだった。
「どうしたの、ウミット」
「いや、たいしたことはない。ネジュラ、心配するな」
オーナーが怒り声で言った。
「ネジュラ、ウミットのこの有様を見てみろ。すべてお前のせいだぞ。お前には辞めて貰おう。いますぐ出て行け!」
 わけが分からず呆然とするネジュラ・・・

 アダパザールではジェヴリエがじりじりとしながら息子の帰りを待っている。タクシーを乗り付けて泥酔状態のタフシンが帰ってきた。
「あれえ~~~、なんてこった、あの女のせいで悪い夢に襲われたようだよ、タフシン!」
 タフシンはものも言わずに母親の顔をぐっと睨みつけ、そのまま寝室に直行、ダブルベッドにどたりと倒れこんで眠ってしまった。
 同じ頃フィクレットも眠れないままにアダパザールの家族を思っていた。タフシンの言葉が何度も思い出される。フィクレットもタフシンを思う気持ちは同じだった。
 次の朝、デニズがタフシンを起こしに来た。頭がくらくらするタフシン。母のジェヴリエは、フィクレットの実家のせいで息子の運勢が狂ってしまったと思い込み、フィクレットへの憎しみを募らせる。
 アリ・ルーザ家でも、みんなが起きてきたが寝不足でがっくりしている。だが食卓にはフィクレットの得意なボレッキはじめ美味しいものが並んでいる。ほとんど寝なかったフィクレットが、いっそ早起きをして、と腕を振るったのである。
「うふふ、恋の効果はてきめんね」とフェルフンデがフィクレットに目配せした。笑うフィクレット。
 みんなが食事を始めようとしたそのとき、玄関のチャイムが鳴った。誰だろう、こんなに朝早く、とレイラが玄関に出て行ったが、彼女はどきんとして足が止まってしまった。玄関の扉の色ガラスに、見覚えのある首筋から胸にかけての線が見えたのだった。
「ネジュラよ」レイラは言った。
 それを聞いた家族は一斉に玄関に駆けつけた。扉が開くとそこには帰らないと言ったはずのネジュラが立っていた。もとより家族は一連の刃傷事件をまだ知らない。誰もが凍りついたように立ちすくみ、まじまじとネジュラをみつめるのだった。


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