madamkaseのトルコ行進曲

2015/10/03(土)19:25

コンヤにて その2

旅に出て人と会う(225)

【9月18日・金曜日】  ミチコ先生の家ではもう既に2~3回泊めて貰っているので、彼女も1人暮らしだから何の気兼ねもなく寄らせて貰っている。彼女が、日本語教師として経験も長く、外国では3ヵ国目の滞在となるトルコで、自律・自尊のポリシーを貫こうと奮闘しているところが好きなのである。  今朝ミチコさんが昨日私の貰った大きなタンドゥル・エクメイをフライパンで温め、紅茶を淹れて朝食の支度をしてくれた。その間にシャワーを使わせて貰い、10時過ぎ頃家を出た。  通りがかりのタクシーを拾い、最初は今回のコンヤ行きのチケットを手配して貰ったアヌ・ホテルの2代目社長アイドゥンさんを訪ねて、挨拶と支払いを済ませた。  シワスに招待されて出かける日もはっきりしていたので、その往復切符もついでに買った。アジア側のサビハ・ギョクチェン空港から、プロモーション中の格安切符が手に入ったので、日本円で7000円程度で往復出来ることになった。  ベキル会長は、娘達の家族とアンタルヤの別荘にいるらしい。あいにく今回は会えないようだった。小一時間アイドゥンさんのそばにいたが、やがて12時になる頃、暇乞いして近くの仕立屋シェンギュルさんの店に行った。  彼女の故郷、黒海沿岸のアルトヴィン県のホッパという町が8月の終わりごろ、大雨の影響で大洪水に襲われ、十数人の行方が分からなくなった。そのうちの幾人かがシェンギュルさんの親戚の人々だったのである。  しかも、その幾日か前に、父親の顔を見に帰郷したシェンギュルさんと3人の娘がバスでオトガルを離れた1時間後に起きた事件だとのこと。ホッパの大洪水のニュースを見た私が、シェンギュルさんに郷里の事件のお見舞いを言うために電話をしたら、彼女達は正にコンヤに帰り着いたところで、親戚の人々が犠牲になったことを知ったのだと言う。  泣きながら話をする彼女に私は近いうちにきっとコンヤに行くからね、と約束したのだった。シェンギュルさんには、何も言わずに突然訪ねて行ったので、それはそれは驚いた様子で彼女は私の首っ玉にかじりつき、ブチュブチュブチュッと3~4回私の頬に唇を押し付け、小躍りして喜んでくれた。  お悔やみを言うとまた彼女は涙ぐんだが、私がアブデュラーさんのお母さんが亡くなった話をすると、びっくりしてすぐにアブデュラーさんに電話して、「今加瀬ハヌムから聞いて知ったの!」と興奮しながらお悔やみを述べた。  私の持って行ったゼリーをお茶菓子に広げ、チャイを取り寄せてくれたシェンギュルさんに、私はスカーフの首の回りを円形にカーブにして掛けやすいようにして貰おうと作業台の上に広げて見せた。すると、「なんてチルキンな(みっともない)縫い方をしてあるの、これはすぐに直してあげるわ、加瀬ハヌム」と忽ち鋏を出してドンドン糸を切って抜き始めた。  私とミチコさんはコンヤ女子会の友人達と2時に約束があったので、スカーフは彼女に預かって貰い、ほどなく店を出た。場所は前回と同じ、友人ヒクメットさんの店、カンディル・レストラン。エスマさんとイクコさんと私達2人。週末ではないので、大学の職員となった恵さんは参加出来ない。  トルコでは料理の一人前と言うのが日本人には考えられないほど多量なので、みんなで4人だが、私以外はみんなほっそりしていて、食欲旺盛、と言う人達でもないので、4人だが、3人前を4つに切って貰い、後でキュネフェ(甘い焼き菓子)を食べることにしましょう、と言うと全員賛成、たちまち注文が決まった。 楽しみだった女子会。みんなで乾杯、と言ってもお水なんですが。   美味しいものが並びました。今日の集まりを楽しみにしていた甲斐がありました~。   エスマさんには大きな息子さんが2人。イクコさんには小さな息子さんが2人。 どちらも素敵なお母さんです。コンヤに来れば会える楽しみがあります。   後ろに午後の日が当たっていて暗いのですが、しわ・しみ・そばかすが目立たない。  久々だったので話も弾み、エスマさんはアンカラから外務省勤務の下の息子さんが、バイラムが近いので帰省してくるのが最大の楽しみのようである。  イクコさんはアデノイドの手術をしたこれも次男坊のサハ君の経過がよいので一安心です、と語った。そこまでは良かったが、2人ともミチコさんがコンヤを離れてしまうのを嘆いた。  数少ない日本人がまた減ってしまうので、これは何としてもユジェルさんに日本人のお嫁さんを探さないと駄目ですね、とエスマさんもイクコさんも本気な顔つきで話している。楽しい時間はすぐ過ぎてしまい、3時半過ぎにお開きとなった。  そのあと、エスマさんと別れて、ミチコさんとイクコさんの3人で、シェンギュルさんの店に行くと、スカーフはさっと洗ってアイロンも掛けられ、縁かがりも目立たない黒い糸ですっかり縫い直してくれてあり、見事に出来上がっていた。   とても素敵になりました。さすが20年以上も娘3人をミシンを踏んで育てた人です。  羽織って見たり、脱いでみたり、またひととき楽しく過ごし、6時頃、私はミチコさんとシェンギュルさんの3人で、ヌレッティン先生のお宅を訪問することになった。  坊や達が待っているイクコさんとは店のあるビルの前で別れ、アブデュラーさんのタクシーを呼んでヌレッティン先生の家に向かった。  先生のお宅には、孫が3人預けられているので、それはそれは賑やかで、バイラムで今週末から9日間休みになるため、長男夫婦も次男夫婦も明日から泊まりがけで家族全員が揃うのだそうだ。  ヌ先生は私のために明日の晩、家族全員が揃ったところで夕食に招待したいと言ってくれたのだが、明日の晩はセマーの儀式を見る予定なので、今日のうちにお邪魔したのである。  明日はせっかくいろいろ料理を計画していたのに残念、と奥さんのケズバンさんが言ってくれたが、短い3日間にたくさんやることがあるので仕方なかった。  ちょうどニュースで、シェンギュルさんの故郷ホッパの洪水事件を取り上げていたので、先生とシェンギュルさんとが大論争を繰り広げた。  2人とも今の政府のやり方に批判的で、ホッパやリゼ、トラブゾンの豊富な水を、コンヤなどの内陸部に運河を掘って供給する国土改良事業案を、今の政府が握りつぶし、お手軽にダムを造ってしまったことを非難している。  内陸では水不足、黒海沿岸では大雨が降るとダムから溢れた水でしばしば大洪水に襲われるのだ、という争点で雄弁な2人がとどまるところを知らず論争を展開したので、他の人が話をするチャンスがなくなった。  こりゃ駄目だ、メヴラーナとシェムス・テブリーズィみたいに、他の人のことが目に入らなくなったらしい、と思ったので、ちょっとした切れ目を待って私は緊急動議、つまり暇乞いしたのだった。  次男の娘で総領孫のファトマ・ニイメットちゃんは、さすがヌ先生の孫だけあって、学校でも抜群の成績なのだそうだ。私が来るのを楽しみにしていてくれたはずだが、今回はろくに話が出来なかったので、シェビィ・アルースで来た時にはもっとゆっくりして行くからね、と寂しそうな彼女を慰め、次回の約束をしたのだった。   今年の2月に訪問した時の、ファトマ・ニイメットちゃん  帰りもアブデュラーさんに来て貰った。シェンギュルさんが私達を自宅に招いてくれたが、これからご飯の支度をするというのでまたの機会に、と辞退し、彼女の家の前で別れた。  ミチコさんの家の近くに適当なレストランでもあればそこで落としてください、とアブデュラーさんに頼むと、彼は「チャーダッシュ・レストランでいいでしょう。もう料理が出来ていますから、簡単ですよ」と答えた。 「駄目ですよ、昨日もご馳走になったんですもの」と言うと彼は笑って、「もう予約を入れてありますから今から断るわけには行きませんよ。家のみんなが喜んでいますから、もう一度寄って顔を見せてやってください」と言う。  私はミチコさんと顔を見合わせたが、車がどんどん坂を上り始めたのでもう、アブデュラーさんのチャーダッシュ家が近くなったことに気づいた。  大邸宅の入り口を入ると家中にいた人達がお父さん以外はみんな玄関に並んで出迎えてくれたので、初めて来たミチコさんはびっくりしてしまった。  私はダイニング・キッチンでオクラのスープやナス料理やほうれん草のボレッキなど、ミチコさんと共にたっぷりご馳走になり、夜10時半過ぎ、またアブデュラーさんに送られて、ミチコさんの家の前まで連れて来て貰ったのだった。チャーダッシュ・レストランの皆様、ご馳走様でした。  慌ただしい一日ではあったが、コンヤでは通いなれた親戚があるような気分で過ごせるのが嬉しい。ミチコさんの淹れてくれたお茶を飲みながら、喋っている自分が半分寝ていることに気がついたときは、12時半過ぎだった。     madamkaseのトルコ本 「犬と三日月 イスタンブールの7年」(新宿書房) 「チュクルジュマ猫会」 海泡石のパイプやアクセサリーと、「宮古島月桃」の買える店   アントニーナ・アウグスタ    

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