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カテゴリ:イスタンブールで人と会う
【3月16日・木曜日】 この前、たくさんの日本の書籍を私に託した友達から「おついでの時でいいですから、また豆腐と納豆をお願いします」と頼まれた。 去年の夏までは私の方からときどき、ジハンギルやヨーロッパ側で働いている人達に電話をかけて「私、○○月○○日に豆腐と納豆を買いますから入用の方はどうぞ」と、欲しい人から数を聞いて取りまとめ、生産者のアジア側に住む縁(ゆかり)さんに注文していたのである。 数がまとまれば、縁さんが配達日にエルマダーとか、タキシム広場まで運んでくれるので、私も出向いて受け取り、豆腐の容器に水が入っているのでかなり重くなるため、帰りはタクシーで配って歩いたりしていたのだが、クーデター未遂事件のあと、ツーリズムが崩壊してしまったため、手渡せる範囲に住んでいる友人のほとんどが帰国したり、引っ越ししてしまい、わが家の近所で豆腐や納豆を注文する人はいなくなってしまった。 アジア側から旅行鞄や小型のスーツケースに詰めて重いものを運んでくる縁さんに、余り少ない数では申し訳ないし、自分が忙しかったこともあって、去年の12月5日にコンヤに行く前日、コンヤにいる日本人友達への土産にするために、縁さんの自宅に納豆を買いに行って以来、会えないままだったので、今回、自分も2~3人分を買うことにしたのだった。 16日午後3時半頃、タキシム広場の甘味どころ「ハフズ・ムスタファ」で会いましょう、という約束になったので、縁さんと会えるのを楽しみにしていたら、本日午後になると警察のヘリコプターが、上空の旋回を繰り返す音が切れ目なく聞こえてくるようになった。しかも時にはホバーリングまでしているのが窓から見えて、不気味な感じだった。 広場に近いパブ、トゥルンジュ・パンパンに電話で聞いてみると、お父さんが出て「タキシム広場は何でもないよ。今日はベシクタシュ・チームのマッチがあるので、ヘリがコントロールに来ているだけだよ」と教えてくれた。 デモ隊やら放水車TOMAがいると恐いし、縁さんが最初に品を受け渡すショッピング・センターの近くにメトロの駅があるので、メトロを利用するように勧めるつもりだったのだが、事件含みでないなら安心だ。 西の空に黒雲が広がっているので、3時前にはこうもり傘を持って歩きで家を出た。タキシム広場まで歩くには一番近いが一番急勾配のタキシム病院の後ろ側の坂道を登った。登ると言うにふさわしい、まさにトレッキングの厳しさである。 一番の近道、でも一番きつい長い坂 上から見ると大したことは ないようですが、どうしてどうして、心臓破りの丘と言うべきか。 この坂道は登りきると、道が平らになり、もっと右側(東寄り)からタキシム広場に繋がるスラセルビレル通りと三叉路で合流する。トゥルンジュ・パンパンに立ち寄り、情報を聴かせて貰った礼を述べ、チャイを振る舞ってくれると言うのを断り、先を急いだ。 50メートルも歩けばタキシム広場である。幸い、広場は何事もなくかなりにぎわっていた。私はホッとして時計を見ると3時20分、約束の甘味どころ、Hafzi-Mustafa(ハフズ・ムスタファ)の奥まったシートに座り、縁さんの到着を待った。 1994年に、娘のもとで4ヵ月暮らし、トルコ移住を秘かに考えていた頃、当時のトメル(アンカラ大学付属のトルコ語専門学校)で学んでいる時に、一期後輩として知り合った縁さんとは今も友情で繋がっており、様々な機会に協力し合ってきた。 さらにその夏、7月1日に私が帰国する時に、カウンターで預けたスーツケース2個のほかに、手荷物が10個口もあり、当時の空港は実に寛容と言うか、娘が機内まで運ぶのを許可してくれた上に、出発ロビーで出会ったメフテル軍楽隊の75人の大部隊の、特にシヴィル・メムル(軍人ではない文人職員)であるコーラスのリーダー、ハッサン・ホジャ(先生)以下、コーラス隊の皆さんの席に呼ばれてそちらに移動、12時間、一睡もせず成田空港に着くまでかわるがわるにその席にやってくるメフテル軍楽隊の皆さんに囲まれて語り明かしたのだった。 習いたてのトルコ語が何とか通じる嬉しさ。1992年に初めてイスタンブールの娘のそばに来て以来、3年続けてメフテル・コンサートに連れて行って貰ったためにすっかり魅了され、その隊員の皆さんとこうして親しく同じ飛行機で日本に旅をしている。コーラス隊の人々もすべて、大学のコンセルヴァトワール、あるいは民間の音楽学校出身で、歌だけでなくすべての楽器を演奏でき、新人隊員の指導員でもあった。 私は当時51歳、しかし無類の頑丈さで疲れ知らずに問われるまま日本に関して、トルコ語で表現の出来る限り、説明に務めた。これがいい練習にもなって、トルコ語の会話習得がますます楽しみになった。成田空港では若い義務兵役の青年達が、ハッサン・ホジャの指示で私の荷物を手分けして、ターン・テーブルまで運んでくれた。 ハッサン・ホジャが「我々と一緒に和歌山まで来ないか」と真顔で言ってくれたが、いくらなんでも4ヵ月家を留守にした後なのでそれは無理な話だった。彼らは羽田から大阪に移動するので名残惜しいがそこで別れた。 その日、荷物のほとんどを宅配便で野田の家に送り、怪我の危険を避けるために自分は家にはまっすぐ帰らず、流山市の従妹のちいちゃんの家で時間を潰し、深夜野田の家に送って貰った。すでに私のトルコ移住の決意は確固たるものとなった。 イスタンブールで新しい人生を切り開こう、どんな困難があっても乗り越える、そしてメフテル軍楽隊を生涯応援しよう。1週間後、彼らの帰途の日(94年7月9日)成田まで見送りに行き、出発前のひとときを一緒に過ごし、彼らのスナップ写真を撮って、写っている人すべての人数分焼き増しして、イスタンブールの軍事博物館に送ったことで、今日に繋がる22年の友情の基礎が出来上がったのである。 チェヴゲン(コーラス)の皆さんにはシヴィル・メムルが多く、軍人の ように転属がないので、未だに当時の懐かしい人達が残っているのです。 右端の大きな人がハッサン・ホジャ。いまは残念ながら故人です。 カザンディビ(右側)、バクラバやピスタチオ・ペイストとチャイ 久々に美味しいという評判の店で食べるのも幸せなことです。 縁さんが来るまで注文は待っていて貰い、渡航記念日も過ぎたばかりだったので、私はしばし感慨にふけり、あの頃の思い出が格別鮮明に蘇った。 やがて縁さん到着、彼女も私もカザンディビ(鍋の底)という、鶏肉入りのスイーツが好物なのでそれを注文し、もう一皿にはピスタチオのペーストとくるみ入りのバクラバを入れて貰い、非常に美味しく楽しいひとときを過ごした。 いつのまにか2時間近く経ってしまい、縁さんは容器や包装資材を買いに行くとのことで、店の前で別れた。 私はそこから1ヵ所用事を済ませてから、スラセルビレル通りに戻り、最初に注文をした友達に連絡、無事に手渡し、スーパーで買い物をし、プリペイドのイスタンブール・カードに充填する店に寄り、両方の手に重い袋をぶら下げ、傘も持っているので、少しでも近道の方がいいと思い、チュクルジュマに下りる階段を使うことにした。 こちらも急こう配である。途中でちょっとつま先が引っ掛かり、グラッとよろけてヒヤリとした瞬間、左手に持っていた豆腐入りの袋が、下のステップにぶつかってしまった。家に戻り、大急ぎで豆腐の容器2つを出してみると、階段にぶつかった下の豆腐が崩れてしまっていた。 でも、豆腐で済んでよかった。もしかすると私が足を踏み外しでもしたら、軍事博物館でごろごろ落ちてしまったように、階段の次は坂そのものなので、一気に転がり落ちて人事不省、などにならないとも限らない。打ちどころが悪ければ骨折もあり得る。 足が階段の角に引っ掛かり、よろけて豆腐の入った袋を次の段の角に ぶつけてしまったタクタキ坂の階段と坂道。転落しないで助かった! 下に見える白い家と、階段の上までにはビル14階分の高低差あり!! ネギとショウガをたっぷり入れて、ロール・キャベツとトマトサラダが副菜。 ご飯は娘の運んでくれた「あきたこまち」、キャベツの芯の漬け物、大満足。 これはきっと豆腐に助けられたのだ、と思うことにして、その晩もう、早速一丁分をそのまま冷や奴で頂くことにした。う、う、う、美味しい、美味しい。 縁さんの豆腐を本当に久々に食べることが出来て、これも渡航記念日の続きのような気がした。 まずはめでたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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