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madamkaseのトルコ行進曲

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2018年02月10日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
【2月10日・土曜日】


 昨日9日、アパルトマンの管理費を銀行に払いに行った後、タキシム広場に上るスラセルビレル通りの大型スーパー、Carrefour(カレホル)で買い物し、最後に出口で花を買っていたら、近くのガニヤン・バイイ(街のあちこちにある場外馬券売り場)から、花屋にチャイを届けに来たエルジャンさんが、「由美子ハヌム、あなたにもチャイをお持ちしましょうか?」と言いました。

 彼は23年前からの知り合いで、長らくジハンギル交差点の角にあるフィルズ・アー・ジャーミイの前のドラック(タクシープール)で、タクシー運転手として働いていた人ですが、ガニヤン・バイイが100メートルほど上のソカク(通り)に引っ越ししたので、その中でチャイ・オジャーウ(チャイの売店)を開いて働いているそうで、そのすぐ数軒先に私がいつも餌を買っているペットショップがあるので、私を見かけるたびに「ちょっとチャイを飲んでいきませんか、5分だけでも・・・」と誘ってくれるのですが、ありがとう、また今度ね、と一度も寄ったことがなかったのでした。

 昨日は友人に頼まれた翻訳も終わらせ、猫にも早めに餌をやって出て来たので、気持ちに少し余裕があったせいか、オッサンばかりが集まっているガニヤン・バイイに、トルコに来て23年、初めて寄ってみようかと言う気になったのでした。エルジャンさんはスラセルビレル通りを横切るのに私の重いカートを持ち、自分の売店の前の席に私を座らせ、すぐにチャイを淹れてくれたので、冷めるまでの間店内にあるテレビ画面で、発走間近に迫ったゲートインの様子を見ていました。実は私は、日本にいた頃フジテレビの日曜3時からの競馬放送を、ほとんど逃したことがないほどだったのです。

 昭和もそろそろ終わりに近づいていた頃でした。白い稲妻と言われた葦毛のタマモクロス、同じ葦毛でも1歳若くまだ顔も体もグレーの濃い野武士のような地方競馬出身のオグリキャップ、そしてこれも地方競馬で負け知らずだったイナリワン、長い金髪のテールをなびかせた尾花栗毛のゴールドシチーなどなど、好きな馬はたくさんいました。彼らの馬人生のストーリーを読むのが好きで、馬券の払い戻し金額には興味がなく、心情馬券というのか、好きな馬に勝たせたい一心から大レースではその馬券を買い、当たっても取り替えずにアルバムに挟んでおくタイプのファンだったのです。競馬雑誌「優駿」を隅から隅まで読み、競走馬のことはとても詳しく知っていました。府中の東京競馬場、千葉の中山競馬場、好きな馬達を見るためによく行ったものです。

 ガニヤン・バイイで1レースを見て席を立ち、財布を取りだしたらエルジャンさんは、「由美子ハヌム、アシュック・オルスン、ヤー!(水臭いことするなよ)」と言われ、礼を言って外に出ようとしたら、棚にトルコのジョッキークラブが出している雑誌の2月号が何冊か置いてあるのを見つけました。表紙全体がゼイティンブルヌにあるヴェリエフェンディ競馬場の空撮写真だったので1冊ほしいと思いました。2015年4月には、オスマン帝国の使節を乗せたエルトゥールル号が帰途に台風に遭遇、和歌山県串本沖で遭難した有名な事件の映画化「海難1890」の撮影で、この競馬場の馬券売り場を、イランのメヘラバード国際空港のチケットカウンターに見立ててセットを組み、3日間撮影が行われたので、私も通訳として働いたことがあるのです。

 
TJK (Türkiye Jokey Kulübü)の月刊雑誌2月号の表紙は、Veliefendi Hipodromu
(ヴェリエフェンディ競馬場)の空撮全景でした。思わず1冊ほしい、と貰いました。
貰った時は左上の方にある Osman Çıkıllıという予告見出しに気づきませんでした。


 私はジハンギルで顔なじみのガニヤン・バイイのオーナーに、「15年くらい前だったけど、トルコ・ジョッキークラブの役員だったオスマンさんという方が、私をこの競馬場に招待してくれて、最上階のガラス張りの部屋で、秘書の女性を付き添わせてくれて、何から何までご親切にもてなしてくれたのです。その部屋からはパドックも見ることが出来、メインレースで10番のゼッケンをつけたケイコという馬の馬券を買いたいと思ったのですが、貴賓室に入れて貰って馬券など買っていいのかどうかわからないので、とうとう買いそびれ、レースでケイコは最初後ろの方で目立たなかったのに、最終コーナーを回ったら一気に先頭に出て、2着に何馬身も差をつけてぶっちぎりでゴールしたんですよ。少しでも買っておけば大変な払戻金でした」と言いました。

 日本で言う万馬券を取りそこなって、自分は一攫千金など、儲けられる運勢ではないことをその日、悟ったのでした。

 さて本日、昼食を食べた後パソコンを開き、メールをチェックしてそのあとFBのページに入ったら、FBの友人の一人で、エルマンさんという青年の最新記事が最初に出て来て、トルコ・ジョッキークラブの雑誌2月号で、彼のお父さんである、オスマン・チュクルル氏についてのルポルタージュが載っているのでご覧ください、と書いてあるではありませんか。その人こそ、前夜、ガニヤン・バイイのオーナーに話をしたオスマンさんに他ならないので、私はびっくりして、後でゆっくり読もう、と思って寝室に置いた雑誌を慌てて出してきてみると、まさに的中、貰った時は気が付きませんでしたが、表紙にも記事の予告が出ているのでした。うわ~、やっぱり~! と10万馬券に当たったような驚きでした。

 
偶然にも、エルマンさんのアップデートしたFBの記事は、私がゆうべ貰って
来たトルコ・ジョッキークラブの機関誌に載っているものでした。

 
オスマンさんの穏やかで上品なお顔が大きく載っています。
ストゥク・ウスタとも兄弟以上に仲の良い大の親友でした。


 オスマンさんとは15年前の2003年に、日本のテレビの仕事で、キュタヒヤのストゥク・ウスタを取材に行ったときに知り合い、その場所もまさにエスキシェヒールの郊外にある草競馬場でした。ストゥク・ウスタもオスマンさんも馬好きで、何頭も所有している馬主だったのです。そして忘れがたいのは同じ日に取材の合間に出かけた近くの薬局で、イルハン・マンスズのお父さんと私が知り合い、自宅に招待されてストゥク・ウスタもオスマンさんも一緒に、私もアシスタントのオカン・ギュレルさんとみんなで押しかけ、ご馳走になり、たくさんお話をしてきたのでした。

 オスマンさんはたいそう裕福なお方で、事業家というより、まるでヨーロッパの古城に住む伯爵様ではないかという感じの上品なお方です。私とアシスタントのオカンさんが2003年の夏に、ストゥク・ウスタ取材の事前調査に行ったときに、ウスタが私に電話をかけてきて、明日8月31日の朝来ればエスキシェヒールのマフムディエ郡で年に一度の有名な草競馬があるので、そちらにいるから急ですまないが今夜のうちに、バスか夜行列車でこちらに来てくれないかと言われ、その晩に取るものも取り敢えずオカンさんと2人で、11時半発の夜汽車に飛び乗って出かけたのでした。

 11時半にアジア側のハイダルパシャ駅を出て、エスキシェヒール駅に着いたのが明け方の5時頃。ウスタが手配してくれた出迎えの人が駅のそばの小さなホテルに案内し8時頃迎えに来るので、体を伸ばしてゆっくりとお休みください、とそれぞれに部屋を取ってくれました。8時過ぎにお迎えの車が来て、うねうねと続く肥沃な平野のただ中をしばらく走って、途中マフムディエ町役場が経営するホテルの庭で、私達は朝食をご馳走になり、食後案内されて少し行くと近くに草競馬場の広いコースがあったのです。馬場はダートで、観覧席は荒っぽい板づくり、一部に日よけの板が掛けられた部分があり、馬主席なのか、そこにストゥク・ウスタと並んで座っていたオスマンさんが一緒に降りてきて、遠路はるばるやってきた私達をねぎらってくれました。

 その日のレースが終了すると、イルハン・マンスズ選手のお父さん、イルファン・マンスズ氏の家に伺い、大いに盛り上がって、たまたま、ストゥク・ウスタがオスマンさんのほかにもう一人、スポーツ記者のアブデュラーさんも連れて来たので、その日の記事は9月5日のスポーツ紙ファナティック新聞に大々的に載せられ、私など両親の真ん中で大邸宅の玄関で記念撮影したり、お母さんと家中を見せて貰っているスナップが全国にばらまかれ、イルハン・マンスズの大ファンと書かれていました。

 ガニヤン・バイイで貰ってきた「トルコ・ジョッキークラブ」の月刊雑誌によると、オスマン・チュクルル氏は1935年、エスキシェヒールで祖父の祖父にさかのぼる、オスマン朝時代から続く大地主の家柄に生まれました。2~3歳の頃から馬に近づき、それからいくらもしないうちに、馬に乗れるようになったそうです。それを証明するのは子供時代だけでも何十枚という、馬上写真があることだそうです。大学は「馬と競走」というテーマで卒論を書いて、アンカラ大学農学部を卒業し、競馬に乗り気でなかった父親を無理に説得してアラブの若馬を買い、馬主稼業と馬の飼育産業に熱心に取り組むようになり、重要なレースの勝ち馬も輩出、やがてサラブレッドに注目してトルコに導入、畜産場も経営して、業界でも瞠目の成功を収めたようです。

 ほほえましいエピソードと思えるのは、1978年に生まれた一人息子の名前には、1971年生まれで、若馬として目覚ましい活躍をして引退した自分の持ち馬エルマンの名前を付けた、という話。

 私はその後オスマンさんと、ストゥク・ウスタのすべての行事で一緒になり、その後もウスタの跡を継いだニーダさんの展示会などでも会うことがあって、オスマンさんとは温かな雰囲気のお人柄が大好きで、ストゥク・ウスタ亡き後も交流が続いており、昨年11月15日に、大エスキシェヒール市のテペバシュ区長の主催で行われた7回忌にもお会いしました。

 
トルコ競馬界の重鎮でもあり、名士中の名士なのにいつも謙虚で
優しいオスマン・チュクルル氏 。ストゥク・ウスタの7回忌で。

 
 普段は行ったこともないガニヤン・バイイに行ったがために、オスマンさんを紹介する月刊誌を貰い、同時にストゥク・ウスタに関しても、懐かしいご縁の数々を思い出しながら、ほかのことは何も考えない一日を過ごしました。

 水ぬるむ頃になったらまた、エスキシェヒールにオスマンさんを訪ねてみたいと思っています。









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Last updated  2018年02月12日 01時30分53秒
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