どうぞ、やすらかに・・・
私の恩人であるMさんは24日お昼前に逝った。いつか、そう遠くない時期に確実に来るであろうその知らせを、私は日付の変わる頃、ほぼ12時間近く経つころにメールで知った。Mさんが逝く時、私は職場のどこで何をしていただろう。思い出せない。何も知らずに仕事をしていたのだろう。午後に外勤があるから、翌日は振り替えで休みを取得しているから、忙しく時間を過ごしていたのではないだろうか。Mさんは、病院に入院することはあれどすぐに退院、ほとんどを自宅で過ごし、お見舞いに誰も来させなかった。連休明けに危篤状態で入院、なんとかもち直したあとに、私はお見舞いに行こうとしたがメールでいさめられた。ありがたいけれど遠慮したい、その時間があるなら、きちんと自分のことをやってほしい、と。もうそれ以上、行くということは実行出来なかった。本人や家族の意志もあるのだろう、お式は家族葬で、ごくごく限られた身内のみでしめやかに送られるらしい。お花等もいっさい遠慮しますとのこと。お別れが出来ない辛さが残る。私とMさんは、たとえてみれば師弟関係、親子関係のような間柄にあたる。Mさんは、常に私のことを考え、厳しく厳しく、それは厳しく指導をしてくれた。しかし、あまりの厳しさにまいることもあり、たとえてみれば、隣のおじさんやおばさんの言うことがが妙に優しく思え、ついその人達のことばになびいてしまう。そんなこともたびたびだった。私は、情に流され間違って自分勝手な解釈で物事をとらえたりしがちだ。Mさんが、そんな私に苦言呵責をしてくれたということが今はわかる。そのひとつひとつ、すべてがMさんの言うとおりだったのだから。優しい隣のおじさんやおばさんも、そしてスーパーカウンセラーと言われる人のことばでさえも、Mさんにはかなわなかった。Mさんの判断は、常に正しい判断だったのだ。情にまどわされた結果、私の目が真実を見ていなかっただけだ。かつての目の患いは、その結果だ。「あなたに私の気持ちはわからない。」と、反発したこともあった。しかしそれは彼女自身が直面していた状況から私に忠告をしてくれていたのだった。「何もそこまで言わなくても。」と思ったときもあった。でもそれは、彼女自身が私に同じことをさせまいとするあまり、伝え続けてくれていたのだ。自分の辛いことは何も言わず、ただ、ただ私のことを思って言いにくいことを言ってくれた。自分が大変な時にも、最後の最後まで私のことを気遣ってくれた。長い闘病生活を終え、今は安らかな状態なのではないだろうか。私はMさんがなしえなかったことを引き継ぎ、やっていくのみ。相変わらず同じところで立ち止まってしまうかもしれないけれど、どうぞ見守っていてください。たとえ時間がかかっても、必ずやり抜いてまいります。