遠蛙(とおかわず)
終章へあと数歩なり遠蛙 昨日の日曜日、母親とふたりで月例の墓参を果たしてきた。92歳。この日を楽しみにしている母親だが、出かけるとなると半日仕事だ。身体も90度近く曲がりまっすぐ前を見られない状態だが、しかし、よく踏ん張って生きている。墓所への200mほどの坂がずいぶんと急で、2度目のペースメーカー手術のあと、これまで毎月独力で登っていた坂道の途中で息苦しさを感じてしばらくうずくまったことがあって以来、医師の診断で弁膜症も併発しているということが判明し、今年から墓参には車椅子に乗っけて坂を上り下りすることにした。はたでなるべく手を貸さずにつきそっているが、実に偉い。一言の弱音も吐かずに、身体が朽ちぬためにぎりぎりのもてる力を総動員して生きていることがありありと感じられる。「人は死ぬまで生きる」とは私の人生観だが、不慮の事故で死ぬ以外では、もう用済み、もう死にたいと自分が思わないかぎり人は死なないといった意味合いを込めている。おそらく母親は時々刻々、生きる意味を見出しながら生きているのだろう。それがひたすら偉いと感じる私の偽らざる思いだ。いずれそんな母親に「よくここまでがんばったね。以後のことは心配せずに心ゆくまで眠りなさい」と言うときが来るのだろう。 アスナロという樹は、明日ヒノキになろう、あさってヒノキになろうと思いつつ生きていることから名づけられたというが、こんな一日を過ごした後の感慨は私の場合、つねに「あすなろ物語」的思いを吐露することになる。寄り道人生がちょっとばかりゆらぐ瞬間という事か。そんな滑稽きわまりない母子を半世紀余り見つめてきたお地蔵さんとハイポーズ。実はこの短詩、読んでいた本がとても面白く、終章まで一気に読み進みたかったのだが、あと数ページで終章というところで中断せざるを得なかった、遠くではかえるが何をか言いたげに鳴いておるわい。との句意で、まったく別の次元の内容だったのだが、こうして併記すると別の意味合いも帯びてきて母親や私の感慨にも重なっていく。