美術雑誌『ミノト―ル』について。
1933年『革命のためのシュールレアリズム』誌が6号で廃刊となった。その終刊号の出た10日後の6月に前雑誌と全く異なるコンセプトをもった33cm×23cmの画集仕立ての美術誌『ミノト―ル』が創刊された。発行者は無名の若者アルベール・スキラ、当時29歳だったという。彼は前衛美術誌を出したいと願っており、そんな彼がたまたま、パリのラ・ボエシ―街にピカソと隣り合って住んでいたという偶然がこの雑誌の誕生となったのだ。ピカソの後ろ盾を得て一気呵成に出来上がったプロジェクトと言っても過言ではない。 この雑誌はシュールレアリズムの機関誌では全くなかったが、スペイン内乱から1939年の第二次世界大戦勃発の年までこの激動の時代に、当時としては珍しい豪華美術雑誌のレベルを維持しながら、年5回刊行の予定が大幅に縮小したとは言うものの、合計11冊(3-4号と12-13号は合併号)13号まで出て廃刊となったが、稀有の雑誌でありつづけた。 スケールは全く違うが、きのこ愛好者のカルチャーマガジン隔月刊『MOOKきのこ』は、このミノト―ル誌13号を念頭に置き、如何なる犠牲を払っても13号までは必ず日の目をみさせるぞと踏ん張って満願したので、僕にも未来の扉が閉ざされる一歩手前で半身をドアにすべりこませることができた次第で、何か不思議な縁を感じている。 そういえば、このミノト―ル特集号の出た『美術手帖』1982年9月号は、全頁オフセット印刷に切り替えた第1号で、こちらもわが国の出版メディアの再編期に当たっていたので何か2重の縁を感じるものであった。 シュールレアリズムに理解を示しながらも伴走を続けたピカソだが、ナチスドイツの台頭とロシアアヴァンギャルド芸術がスターリニズム一色に塗りつぶされはじめた当時のブルトンをはじめとするパリのアーティストたちは、いやが上にも共産党や全体主義との関係で自身の芸術生活を考える必要にせまられていたので、この雑誌の存在はシュールレアリズム運動の試行錯誤をうまくカバーし、彼らの広汎なアートの流れを停滞させることなく大海へ向かって流しつづけるかっこうの船となったようだ。 したがって、この『ミノト―ル』誌が政治と戦争の激動の時代になぜ6年もの長きに亘って存続しえたのかを検討することはシュールレアリズムの流れを21世紀に継承する鍵が秘められているようにも思える。 美術手帖のこの号では仏文学者の出口裕弘氏が1968年にニューヨークのアーノ・プレス社から出たリプリント版にもとづいて創刊号から終刊号までのそれぞれについて詳しく解題してくれていて、戦後生まれの僕にとっては、とても参考になる。ミッシェル・レリス、マルセル・グリオールのアフリカ、ブルトンとトロッキーのことなど、どの号もスリル満点で大戦前夜のアートにとって最高の時代であったことがひしひしと伝わってくる。 ミノト―ルとは牛頭人身の古代神話の怪物(ミノタウルス)で、当時ピカソが好んだモチーフ。さまざまな作家がこの雑誌の表紙によせて各様の個性的なミノトールを描いているのも面白い。