|
カテゴリ:ギャラリーきのこ
昨夜、本日の予習のつもりでこの『学生』を一読してつい最近観た映画『Tree of Life』をただちに連想した。 このブログでも紹介した通りこの映画は、厳格なクリスチャンの家庭の栄光と悲惨の年代記を聖書の『ヨブ記』をベースにして全知全能の神への不信を抱きはじめているであろう合衆国アメリカの多くの人たちに対するひとつの答えを提示し映像化したものだ。 ひるがえってチェーホフの『学生』は、ロシア農奴の救いのない現実、寺男である主人公にのしかかる気の塞ぐような現実、彼らすべてを取り巻く過酷で荒涼たる自然の描写につづき、寡婦(やもめ)の母子のたき火に立ち会い、彼女たちになぜか聖書の福音書からこの宗教のもっとも核心部分に当たるキリストの磔刑前夜の情景を取り出し、ユダの裏切りはいうまでもなく、弟子ぺテロの「キリストとは無関係である」と三度偽証した場面を主人公に語らせる。しかも、この唐突感の否めない情景を超短編の作品のかなり多くの部分を割いて書き連ねていることから、当日聴講した会員の人たちから、ここにはチェーホフの来るべき革命に対する遠回しのメッセージが込められているのだろうかとの意見が出た。それを皮きりに、とても活発な意見が飛び交い、久々に直球、変化球とさまざまなキャッチボールがみられる読書の集いとなった。 が、僕にはこの作品の眼目はペテロの挿話のあとで寡婦のワシリ―サが笑顔のままにふいにすすりあげるのをみてとってしばらくして、その場に別れを告げふたたび独りとなって家路へと向かう主人公が、たき火の前での寡婦の母子の様子をふりかえりつつ語る部分であろう。 「過去は ‐ と彼は思った ‐ 次々に起こる出来事の途切れることのない鎖で現在とつながっているのだ。彼はたった今、その鎖の両端を目にしたような気がした。片方の端に触れたら(ペテロに託して記述された人間だれしもが持つ心の弱さ)、もう一方の端(主人公が垣間見た農奴で寡婦のワシリ―サの涙)が震えたのを」。<渡辺聡子訳>()内はマダラの蛇足。 ここには映画「Tree of Life」の主題とおぼしき「太初の昔から現在まで生物はDNAレベルの記憶を鎖さながらに保ってきており、それがすべてだ」と言うのと同じ意味合いの言葉が語られている。 「人間の生の営みは、信、不信を超えたところで、営まれてきたし、現に営まれつつあり、これからも営々と営まれていくことの中に全てがある。ここでは救いとか神を信ずるとか言うこともほとんど意味をなさない。されど・・・。」 僕には、これがここでチェーホフ自身がつかみ取ったものであり、世界的な救済宗教、普遍宗教とされてきた教えにすべて共通する認識だと感じたのである。 小品「学生」は一読して聖書、仏典などで書き連ねられてきた創作(ここでは後世の使徒によってイエスの最後の日々を再構成した福音書)にみられる神話作用について、物書きとしてのチェーホフ自身がはじめて開眼したものだと僕には思われた。 もちろん、そこからチェーホフの来るべき時代へのメッセージ、革命の予兆を読み取ることは自由だが、サハリン旅行(1890年)を経てメ―リホボ村での作家生活に入り、帝政ロシアの最下層の人たちの悲惨な現実をつぶさにみてきた彼は、この作品において、飢えた人にはまずなによりもパンが必要という革命による救済からみれば余りに非力な書くという行為に対して、チェーホフ自身のよって立つべき場所と根拠をようやくつかみとったと僕には思えたのである。 これまで、ストーリー・テラーとしては抜群の才のあるこの作家の作品は筆が滑りすぎると感じて余り重きを置かず、代表的な作品のみをつまみ食いしてきた僕だったが、この原稿用紙にしてわずか数枚の「学生」という作品に接して、目からうろこの落ちる思いがした。 虚構というもののもつ真実の力はそれだけではむなしいものだが、連綿とつながってきた鎖のひとつが共鳴し揺れたときに大いなる力を持ちうる。 このこと(渡辺さんはロシア語のサストラダ―ニエ=共苦と語っていた)を、物書きとして自覚したチェーホフ34歳の1894年。この作家の転換点を軸に、我が家で眠っているチェーホフ全集(時には原文にあたりながら)をいちど総なめしてみようという衝動にかられた。 僕にとってはこの日の渡辺聡子さんの談話は、僕が今真剣に向き合っているテーマに肉薄するもので素晴らしいクリスマスプレゼントとなりました。チェーホフにあらためて引き合わせてくれた貴女に、この場をかりて御礼申し上げます。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年12月27日 00時26分54秒
コメント(0) | コメントを書く
[ギャラリーきのこ] カテゴリの最新記事
|