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カテゴリ:アラカルト
雨の四天王寺・聖霊会の伎楽(2年前のこと) 推古天皇20年の条に「味摩之が帰化し、伎楽を伝えた」という記事があります。彼らの伝えたものは古代チベットインドの仮面劇で西域を経て中国南朝に伝わり散楽と呼ばれた呉楽で、味摩之はそれを呉国で学んだとされる。この舞は厳粛なものではなく、滑稽、卑俗なもので、朝廷は桜井に住まわせ少年たちを集めて伎楽の舞を習わせた。その中から真野首弟子(まののおびとでし)、新漢済文(いまきのさいもん)が出て、これを習い伝えたとされる。この味摩之の居住地が蘇我稲目の屋敷を寺とした向原寺(こうげんじ)だと言われる。この向原寺のかたわらに井戸があって桜井とよばれたことから奈良県桜井市の地名が起こったとされる。その桜井はまたの名を榎葉井(えのはい)と呼ばれた。大和申楽四座の外山(とび)結崎(ゆふざき)坂戸(さかど)円満井(えんまんゐ)の円満井はこの榎葉井に由来するという。 この榎葉井(あるいは朴井=えのい)、そして味摩之(個人名ではなくおそらく楽人の集団名)は、わが国の仮面劇、能楽につながる歌舞音曲の発祥の地であり人であると僕は考えている。そして秦氏の末裔と自ら称した四天王寺楽人のルーツでもある。彼らの舞を秦姓の舞と呼ぶ。そしてここは大海人皇子の舎人(とねり)で壬申の乱(じんしんのらん)で功績があり、天武帝から内大紫の位と氏の上を賜った物部守屋の子・榎井連小君(物部雄君連=もののべおぎみのむらじ)の本貫地で、なによりも物部守屋敗死後の物部氏の本流がここからはじまったという。谷川健一『四天王寺の鷹』より 僕がこれからはじめようとしているきのこシアター構想、すなわちきのこアートの総合化にとっていずれこのことは重要な意味を帯びてくるだろう。
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最終更新日
2012年04月21日 19時38分48秒
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