|
カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
一滴の雨粒 跡部物部の本貫地の跡部神社 一滴の雨粒からはじまる旅を続けて延々25年の歳月が過ぎた。大いなる無駄をつくしてようやく物部守屋の墓所にまで辿りついた。時が満ちるということはこういうことだろうか?。渋川郷は物部守屋が蘇我馬子に不意をつかれ取るものもとりあえず辿りついた別荘で陣営を立て直し、敵を迎え撃つ手はずを整えた。しかし、彼には蘇我氏たちの真意が計りかねたのではないだろうか?。なぜを繰り返しながら射殺されたと僕は推測する。 教科書で習った聖徳太子や秦河勝をも巻き込んだ仏教導入の是非をめぐる争いとは異なる三韓の動向を反映した国際政治上の対立が顕在化したものとみられる。中大兄皇子の乱心は守屋謀殺ののち、蘇我へと及び、秦氏の動向すらそののち国史から見えにくくなっていく。大化の改新と呼ばれた維新に当たる事件はそろそろ再検討されるべきときが来ていると僕は思う。守屋の名誉回復もそのときなされなければならないように思える。
物部氏の氏寺とされる宝積寺址に建つ渋川天神社と尾形の整った狛犬
守屋墳 守屋の首洗い池 大聖勝軍寺の門前に建てられた守屋墳。明治までは塚状の丘の上に一本松が植えられただけのものであったが、明治のはじめに藤原氏の系譜につながる堺県知事小河一敏(おごうかずとし)が墓碑を建立。
大聖勝軍寺 全国の守屋系神社がズラリ守屋墳を囲む 玉垣にはMOOKきのこでも採りあげたアテルイを祀る片埜神社の名前も見られ、ここの宮司の養父家とのつながりが伺われる。
1.沙門天 2.広目天 3.増長天 4.持国天
聖徳太子像の四囲に立ち太子を守護するかのような四天王像 本来仏法の守護神である四天王は本寺では四大臣像と呼ばれ、上図左よりそれぞれ秦河勝、とみのあかえ、小野妹子、蘇我馬子に摸せられて、ここでも政敵のはずの聖徳太子、蘇我氏、物部守屋はなかよく祀られている。今回は都合で植松にある渋川神社へは立ち寄れなかったが、広大な社叢林とにぎはやひ命を祭るとされるのでまた機会があればきのこの季節に改めて訪ねたいと思っている。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年06月09日 23時41分08秒
コメント(0) | コメントを書く
[きのこの文化誌・博物誌] カテゴリの最新記事
|