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夢みるきのこ

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2013年01月26日
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              タマゴタケ0001.jpg

 

 きのこは早いものでは数時間、長くても数日で跡かたもなく消え失せてしまうはかなさのきわみ、諸行無常を感じさせる生きものである。地表下にひろがる数ミクロン(千分の一ミリ)の目に見えない細胞の連なる糸状体が本体で、それに比べれば格段に大きくその存在を誇示するきのこが単なる胞子をつくる器官であり部分であることを知ればとても一筋縄ではいかない生きものであることが理解できるだろう。きのこは常識でかたまった人間を欺く生きものなのだ。スポーツ登山に興じていた僕がこの生きものとはじめてじっくりと対面したのは日本アルプスの高嶺ではなく、丹波篠山のどこにでもあるような低山で、その日は山全体がきのこの山と言った形容がぴったりするような一日だった。以来、きのことの一期一会の出会いを期して端山をさすらいつづけて三十年近い年月が流れた。

このきのこ、付き合えばつきあうほど不思議な生き物で飽きることがない。それは仏教思想でいうところの「(くう)」に通じるとらえどころのなさに魅力を感じているからかもしれない。

 釈迦の教えは「無我」ということに尽きる。(ばっ)()我執(がしゅう)を消し去ることで得られる。なんとなれば諸行無常、「色即是空 空即是色」ゆえに。これが釈迦の到達した悟りの境地であった。誤解を恐れずに言ってみれば、「この世に永遠不変のものなどなく我欲の根を断ち()(てい)で生きよ」という教えである。この自己の魂の救済の観想と行法は、個人レベルの次元では完臂なきまでの徹底した洞察に満ちており、禅やヨーガでも基本的にはこの方法を踏襲してきた。ただ、そうした自分一人の解脱をめざす部派仏教は衆生救済という本来の目的を忘れているとして紀元前後から釈迦への復帰運動が起こった。部派仏教の自利(じり)(ぎょう)に対して利他(りた)(ぎょう)をもっぱらとする大乗仏教がそれである。この大乗運動はその性格上、他者すなわち社会を意識する点で最初から矛盾を抱え込むことになった。

大乗的なものの見方・考え方の基底を成すものは「般若経(はんにゃきょう)」に基づく「空」思想と「()(じん)(みつ)(きょう)」に基づく「唯識」だが、前者は龍樹(ナ-ガールジュナ)(紀元一五〇~二五〇年頃)によって大成され(ちゅう)観派(がんは)を形成するが、(あく)(しゅ)空者(くうじゃ)(空を誤って解釈し、虚無に陥る者)が続出したため、一切が「空」であるが、少なくとも「識」すなわち心だけは存在するという思想が現われ唯識瑜伽(ゆいしきゆが)行派(ぎょうは)を形成した。唯識では唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。すべては心の中にある。心を離れてはものは存在しないとする。この一切は空であるにもかかわらずあるが如くに見える自分の周りに展開するさまざまな現象(外界)の捉え方についての精神の葛藤の記述が、唯識思想を仏教でありながら、科学、哲学、宗教を超えた世界に通用する普遍的な思想にしている。

宮澤賢治は「世界が全体幸福にならないかぎり個人の幸福はありえない」と書き残したが、彼の奉じた「妙法蓮華経」の精神はこの菩薩行に尽きる。しかし、この考えを展開するためには「人人(にんにん)唯識(ゆいしき)」すなわちひとりひとりが識によって自ら作り出した個別の世界のほかに、言葉で語られ、しかも人間同士が「ある」と認めあった共通の抽象的な世界が必要となってくる。

その場合、唯識の考え方は、個人レベルでは見事な洞察だが、社会的動物として外界依存を強めた現代人には受け容れがたいものがあり、この打開策を示したのが天台大師智ぎ(ちぎ)(紀元五三八~五九七)だった。彼は従来の仏教の俗諦と真諦の二諦(諦は悟り)に修正を加え、世の中のすべての存在現象は実体がなく(=空)、それは縁起(因果関係)によって仮りに存在しているにすぎない(=仮)。だが、われわれの現実は()の中にあるので、「空」を追い求めれば、現実の生活、人生は空虚である。しかし、「仮」を否定すれば、「空」そのものも成り立たず、悟りを求めることができない。そこでどちらにも偏らず中間の立場である「中」を重視するという三諦(さんたい)(えん)(ゆう)を打ち出した。要するに、「仮」の世界と「空」と観ずることのバランスをとることこそが肝要としたわけだ。

しかし、二十一世紀の世界は、この「仮」の世界がとめどもなく肥大化して破局へまっしぐらの状態となりつつある。僕はこの、仮りの世界に対置させたもうひとつの「仮」こそがきのこであり、それが智ぎの言うところの「中」なのだということをきのこを通して理解したのだ。僕の「きのこは文学・アートである」とはこのことを意味している。ただ、現代の文学・芸術、そして宗教は、「仮」の世界の論理にまみれ、その持てる力をそがれてしまっている。僕はその「仮」の世界を超えて現前するきのこという没価値な生き物に意をそそぐ人たちに共通するかけがえのない優しさとシュールなアート感覚を湛えたさまざまな事業を展開したいと考えている。力の論理とマネーゲーム一色の世界に静かに一石を投じていく試み、それが僕にとってのキノコの教え、きのこシアタープロジェクなのだ。






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最終更新日  2013年01月27日 21時39分38秒
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