ヘーゲル『精神現象学』(熊野純彦訳、ちくま学芸文庫)がamazonで従来の訳より断然よいと高評価。で好奇心半分、図書館で借りてきた。
開巻「哲学に「序文」は必要か」という見出しで150ページの序文が付いている(お茶目?)。すっ飛ばして本文を読もうとしたら、これが1行目からアイマイモコで1ページも読めない。これを最後まで読んでレビューを書くって、一体どういう人たちだ?
こんなハズではと昔買ったOxford版を引っぱり出してみた。こっちの方がずっと分かりやすい! そもそも冒頭から熊野訳はなんかおかしい。主語knowledge or knowingがただの「知」になっている。すでにある知識と知る行為はかなり違う。A or B is C or D構文だから、 A is C or B is Dと解釈すべきだが、このままでは日本語にはならない。知識は云々、知ることはかんぬんと書き分けるわずらわしさをきらって「知」1本にまとめてしまったとしたらミスリードもいいとこだ。
これを皮切りにワカランチンな訳がごろごろ出てくる。”it presents itself”が「現象する」、”in various ways”が「多層的」(原文のせい)とか止まらない。”either when we reach out into space and time…or when we take a bit of this wealth, and by division enter into it”が「空間と時間のなかで私たちが外に出てゆく(ことで、その内容のひろがりをとらえる)ときにも、その内容の一片を取りだし、これを分割することでその一片の内へのはいりこむ場合でも・・・」とむなしくかみくだいた文がえんえんと。
”sense-certainty”を「感覚的確信」というのもワケ分からない(今流のクオリア?)ここにおいて”pure I”も”pure object”も”pure this”となるっていうから、ウイリアム・ジェームズや西田幾多郎の元祖・純粋経験っぽい。これを「この者」「このもの」と訳し分けてはシャレにならない。結論、話しことばでやさしく訳す(したつもりになる)より漢文調でガッツリ訳す方がよっぽど分かりやすくないか(なんだかんだ言って、広松渉は分かりやすい)。それよりなにより、理論的な文章は日本語より英語の方が分かりやすいって、この国の近代の嘆きをいまだに引きずってる?(本は一日で図書館に返した。)
・・・ここで気がついたが、冒頭の「知」は原文がそうなっていたからで、英訳の方が意味を汲んで超訳した可能性に思いいたった。忠実すぎて分かりづらい熊野訳を責めるのはお門違いだったかもしれない。