家路『家路』花を追って家路をたどる。 白は、ハコベ、ナズナ、シロツメクサ。 薄紅色は、ハルジオン、キュウリグサ。 黄色いタンポポ、カタバミ、ハハコグサ。 紫は、ムラサキカタバミ、ムラサキツユクサ。 見渡す限りのレンゲソウ。 呪文のように唱えて行けば、やがて、炭を焼く匂いの漂う小さな村落へとたどり着く。 村にはもはや私の住むべき家はない。 父も母も亡くなり、私も都会に出てもう30年を過ぎた。 ただ家路をたどる道だけが、時に忘れられたようにそこにある。 私の家は住むものもないまま、朽ち果てている事だろう。 私の子供の頃には既に、田舎を捨て都会に出て行く若者は絶えなかった。 やがて残された年寄りは次々と土に返り、うち捨てられたままの家が、私達子供にとって大人には内緒の『秘密基地』。 又は、日暮れ時にこっそり忍んで行く『お化け屋敷』として存在していた。 そんな風であろう私の家を、買い取りたいという物好きが現れたのだ。 最近は都会育ちが田舎にあこがれて、あえて緑濃い不便な場所に、古い家屋を買い取って住むというのがはやっているらしい。 どうせなら都会に出たばかりで、狭いアパートの一室で、毎日ラーメンを食べて暮らしていた頃に売れればよかったのに。 その頃には見向きもされなかったものが、今になって、好条件で買い取ろうという人が現れるとは・・・。 売ることには依存はないが、その前にもう一度子供の頃過ごした家を見ておきたくなった。 若いときは重荷と思っていた土地が、今は甘い感傷を呼び覚ますものになっているのが不思議だった。 山間にある村落は、明るい日差しをさんさんと受けて、昼寝をむさぼってでもいるように静かだった。 道々行き会う村人も子供の姿さえない。 村の入り口近くに、元は私の家のものだった桑畑が広がっている。 夏の日に、桑畑で蚊に刺されながら、黒く見えるほど濃い紫の実を口に含んだ。 特に美味しいとも思わなかったが、少年時代の大切なおやつだった。 私の喉が思わずごくりと鳴った。 ほの甘く、かすかにすっぱく、どこか土臭い味が口中に蘇る。 畑の隅に母は自分だけの小さな花園を作っていた。 エゾギクやオニユリやサルビアやケイトウ・・・母は赤い花が好きだった。 私は赤い百合の花粉を顔につけて遊んだ。 花の中に顔を突っ込んで思いがけず蜂に刺されたこともある。 痛くて熱くて飛び上がるような感覚。 私は思わずぱしぱしと顔を叩いた。 思い出すことで、その時の痛みが走った気がした。 あわてて近所の家に飛び込み、塗ってもらったキンカンの匂いが、つ~んと鼻の奥でする。 やがて橋の上に出る。 橋の傍らには集会場だ。 父について行った集会場は、いつもタバコの煙が溢れていた。 通りすがりに覗いてみたが誰もいない。 タバコのにおいが、コンクリートの匂いと混じって漂うばかりだ。 いつもは将棋をさす大人がふらふらとやってくる時間だが、最近はあまり使われていないのだろうか? 橋の下には昔よく遊んだ川がある。 ここの鮠は釣竿ではつかまらない。 川岸の草の根元の水を、ザルで突っ込むようにしてがそごそと探る。 すると銀色の魚が、いつのまにかザルの中でぴちぴちと跳ねているのが常だった。 私は川に降りてみた。 ジャリを踏んで川石をわたる。 川中に見慣れたザルが転がっていた。 昔、台所からこっそり持ち出し、鮠すくいをして遊んだザルだ。 見つかって母に大目玉をくらったものだ。 私は何気なくザルを拾ってみる。 どこかの子供の忘れ物だろうか? 川の水が反射してあたりはまぶしいばかりだ。 私は気まぐれに、革靴と靴下を脱いでズボンの裾をまくった。 ザルを持ってざぶざぶと水に入る。 水の冷たさに、体中の汗が一瞬で引く。 川岸の葦がさわさわと揺れる。 そっと魚を脅かさぬように忍び込み、ザルを水面下に半ば沈める。 水に浸かった草の根元をざざっとかき回し、すばやく引き上げる。 勘は少しも鈍っていない。 私は満足した。 ザルの中には銀色に輝く魚の姿があった。 川から上がって少し行く。 古ぼけた店がある。 店内は薄暗く、人の姿はない。 たまに訪れる客が、店内のアイスだのするめだのゴムぞうりだのを選んでから、店の奥に向って大声で店番のおばあさんを呼ぶのだ。 すると小さなしわだらけの顔を、ますますしわだらけに微笑みながら、チョコチョコとおばあさんは現れる。 茶色い指先で一枚一枚ゆっくりとお釣りを渡すと、新聞紙にくるんで、あるいはむき出しのままお店のものを渡してくれる。 何か、もごもごと言ってはいるが、その言葉を聞き取れたためしはない。 でもその微笑で、客はおばあさんの言葉がわかる。 私は覗き込んだ店の中に、おばあさんの姿を見て、思わず目をこすった。 私の子供の頃には、80歳を越えていたおばあさんが、今でも店番をしているはずはない。 おばあさんの子供だろうか? 『おばあさん。こんにちは。』私は子供の頃したように挨拶をした。 おばあさんはニコニコと微笑みながら、もごもごと私には聞き取れない言葉で挨拶を返してくれた。 我が家はもうすぐだ。 家のそばの火の見やぐらが見えた。 『やぐらには、絶対登ってはいけない。』 父親にいわれた言葉。 一度近所の子供達とやぐらに登ったことがある。 高く高く上がっていくと半鐘がある。 小さな放送スピーカーもある。 私達は半鐘を打ち鳴らし、 放送スピーカーをマイク代わりにして、大声で『禿げ』のはやし歌を歌った。 『ひとつ人には禿がある ふたつ不幸な禿がある~♪』 それからさんざん父親達に怒られて、そろって真っ暗なお蔵に閉じ込められたのだった。 昔から悪さをするたび、お蔵に入れると脅されたものだったが、本当に閉じ込められたのはそれが初めてだった。 お蔵は最初は真っ暗で、次第に目が慣れてくるといろんなものが見えた。 ぼおとした淡い光が隙間から差し込み、無骨にでかい昔の農具を照らす。 隅の方には畳があり、古ぼけても真っ赤な婚礼布団が置いてある。 私達は泣きじゃくり、どんどんと重たい鉄の扉を叩いた。 その時の手の痛みが、鈍く私の手に宿る。 振り向くと奥にある鎧に命が宿り、私達に襲い掛かってくる気がして、扉にしがみつき、振り返らぬよう自分に言い聞かせながら、大声で母を呼んだ。 私の耳に自分の声がわんわんと響く。 わかっている。 これは幻聴だ。 あの時、背後から聞こえたがちゃりという音も幻聴だ。 いつのまにか、私は火の見やぐらのすぐ下まで来ていた。 私はやぐらを見上げた。 昔より低く思うはずなのに、相変わらずそびえ立つ高さに感じられる。 私はふと、やぐらのはしごに足をかける。 『いけない。』 私の中で父親の声がする。 恐ろしく、そして懐かしい声。 『ほんのちょっとだけ思い出に浸らせてくれよ。』 私は自分の中の父親に向ってわがままを言ってみる。 30年ぶりのわがままだ。 はしごをぐいと、腕で引き寄せるようにして登っていく。 ほんの少しだけのつもりだったが、真ん中を越えると、もはや一番てっぺんまで登らずにはいられない気分だった。 下を見ると頭がくらくらする。 息が切れる。 汗が目に入って染みて痛い。 もう少しだ。 最後の段を上ろうとしたとき、私はあっと悲鳴を上げた。 半鐘台の下に、大きな蜂の巣があった。 耳の中に大きなわ~んという羽音が広がる。 あの時はこんなものは無かった。 それともあったのだろうか? 私の革靴が、つるりとはしごをすべる。 私の体はまっ逆さまに、やぐらの下に向って急降下した。 気がつくと、私は地べたに横になっていた。 私の上にはいくつもの影。 『気がついた!』 『まさヤン大丈夫か!』 『動かしたら駄目よ。』 口々に声をかけるのは、 吾郎に、哲也に、幸子だ。 『正志!!』 野良着を着た母さんがかけてきた。 『正志!大丈夫か?』 私はよろよろと身を起こす。 『起きたら駄目だ!』 母さんの顔は真っ青だ。 『大丈夫だよ。』 私は母さんの手を振り払った。 なんだか頭がぼんやりする。 『だからやぐらには登るなと、いつも言ったのに。』 母さんが泣きながら言う。 『もう大丈夫だよ。』 僕はもう一度言う。 今度は頭がスッキリした。 体のどこか痛いかなと思って、恐る恐る動かしてみたがどこも痛くない。 ちゃんとしゃんと立ち上がれた。 『診療所の先生のとこに行かなきゃ。』 母さんはまだ心配そうだけど、僕は医者なんかごめんだ。 どこも痛くないし。 そこへ父さんがかけてきた。 『誰かが、やぐらに登ってると思ったら、正志か!』 僕は、あわてて逃げようとしたけど、父さんのほうが早かった。 僕の体を強い力でぐいと引く。 ぶたれる。 僕はそう思って頭を腕で隠した。 すると不意に僕の体がふわって浮いた。 僕の体は父親に抱きかかえられていた。 『痛いところはないか?』 父さんの震える声。 父さんは僕を抱えたまま家に向った。 母さんが後を追っかけ、心配そうに僕を覗き込む。 『家に帰ろう。』 父さんが言う。 僕はこっくり頷いた。 父さんの腕からは、桑とタバコのにおいがした。 『お蔵には入れないでね。』 僕は小さく父さんに言った。 ジャンル別一覧
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