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小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

変身

   『変身』


ある朝起きると、夫が巨大な毛虫になっていた。
ベッドの中、隣に寝そべっているその虫を見て、私は途方にくれた。
『あなた?あなたなの?』
虫は、赤く悲しげな目で私を見た。
私は、虫の体にそっと手を触れた。
少しごわつく黒い毛は、夫の毛深い体毛を思わせた。
その下には、ひんやりと滑らかな肌。
はちきれんばかりに、むっちりとよく太っている。
『こんなに冷たくなって。』
思わず涙がこぼれた。
節に手を滑らすと、夫はくすぐったいのか、うねうねと体を動かした。
その日から、私は毛虫の夫と暮らすことになった。

夫は3年前、リストラにあってからというもの、自宅で一日中、寝転んでテレビを見て過ごしていた。
たまに外出する先は、決まってパチンコか風俗だ。
夫が帰らぬ長い夜。どれほど悶々と過ごしたことか。
だが毛虫になった夫は、もはやなじみの女の元へも通えない。

4歳になる娘は、毛虫になった父親に、最初はひどくおびえた。
だが、もはや人間であったときのように、いきなり怒鳴られもせず、わけもなく殴られることもないのだと知ると、子供らしい残酷な好奇心にかられるようになった。
箒の先などで、虫の体を突付き、苦しげにくるんと体を丸める様を、きゃっきゃっと笑って眺めていた。
私が叱ると不満そうにしていたが、やがてその遊びにも飽き、そして、毛虫の発する青臭い悪臭を嫌って、そばに近寄るのも嫌がるようになった。

私は毎朝、夫の新しい部屋となった、元の夫婦の寝室を掃除する。
モップとバケツをぶら下げて、部屋のドアを開けると、夫はベッドの上から、時には、何本もの後ろの足で体を支えながら、天井からぶら下がって私を迎える。
私は夫の剛毛を少し撫でてやり、掃除に取り掛かる。
床や壁、天井にまで、夫が這い回った粘液の跡がある。
モップでべちゃぬちゃとそれをぬぐってゆく。
掃除が終わると、新鮮な野菜を盛ったかごを部屋に運び込む。
今朝は、レタスが半ダースに、にんじんが1キロほどだ。
毛虫がしゃくしゃくと、野菜を咀嚼する音を聞きながら、時々私は考える。
本当に、これが夫なのだろうか?
もしや夫は、この虫に食べられてしまっているのではないか?
私がそう考えると、毛虫はそれがまるで解ったかのように、悲しげな目で私を見つめるのだ。

夫の様子が変わったのは、それから一月もたった頃だった。
いつものように、掃除に訪れた私を迎えたのは、巨大な繭だった。
夫の姿はない。
日の光を嫌う夫のために、部屋はいつも窓が締め切りで薄暗い。
私は電灯のスイッチを入れた。
繭は、光を浴びてきらきらと雪のように白く輝いた。
薄く透けて、中にいる黒い毛虫の姿が見えた。
虫は、ひっきりなしに口から白い糸を吐き出している。
私が繭を押すと、それは固く、こんこんと音を立てた。
夫はちらりと私を見たが、かまわず繭作りを続けている。
私の目の前で、あっという間に夫の姿は見えなくなっていった。

私が夫に出来ることは、もはや、そのままそっとしておくことだけだった。
娘に、パパの部屋には行かないようにと言い聞かせたが、娘はすっかり興味を失っていて、どのみち近寄りそうもなかった。父親としての存在は、人間だった頃から、もともと娘の中にはなかった。

私は娘を保育所に預け働きに出た。
夫が働かなくなってからというもの、私が稼ぎにでていたが、夫の看護のためしばらく職場を休んでいたのだ。
久しぶりに出た職場ではみなが優しかった。
『ご主人の病気、もう大丈夫なの?』
私は夫の変身については触れず、ただ難病に罹っているとしか伝えていない。
『ええ・・・今はだいぶ落ち着いてますので。』
夫を医者に見せようとは考えたこともなかった。
あのような姿に変わってしまっては、夫は患者としてではなく、研究材料として扱われるだろうと思ったからだ。

日々は穏やかに過ぎて行った。
私は時折、繭に頬を寄せ耳を当てて、中の様子を探ろうとする。
コトリとも音はしない。
夫は中でどうなっているのだろう?
生きているのだろうか?
繭を割ってみたい衝動に駆られたが、それが夫にとって良いことなのか、悪いことなのかもわからない。
私はじっと待つしかなかった。

そして春が訪れた。
日差しが温かく、汗ばむような陽気になった日の午後。
突然、繭は割れた。
その中から現れたのは、もはや毛虫の姿ではなかった。
体中に黒い産毛を生やした、巨大な蛾になった夫がいた。
夫が、狭い部屋をばたばたと跳びまわると、黒い煤のような燐粉が舞った。
やがて蛾は、羽を広げたままカーテンにとまった。
その太い胴体に触れると、どくどくと心音が感じられた。
『あなた。生きていたのね。』
蛾の分厚い羽が、ゆっくりと閉じてまた開いた。
また前と同じ日々が繰り返される。
私はそう思った。
毛虫の夫が、蛾になっただけだ。

だが日中はおとなしくしていた夫は、日が陰るにつれ落ち着かなくなった。
夜になると、ばたばたと部屋中を飛び回り、その羽を壁や天井にぶつけ傷ついていた。
舞い落ちる燐粉で、電気をつけていても、部屋が薄暗く感じられた。
『外へ出たいのね。』
もう、夫はどこへも行かない。そう思っていたのに。
けれども、結局私は、窓を開けた。
夫と暮らすことに、もはや疲れ果ててもいたのだ。
夫は、ばたばたと、夜の中へ飛び出していった。
その黒い姿は、闇にまぎれてすぐに消えてしまった。
娘と別れをさせなかった。
ぼんやりと思った。
いや、娘はとっくの昔に、父親との別れをしていたのだけど。
そして、私も、あれを本当に夫として愛していたのだろうか?

夫が行ってしまってから、私と娘の生活は楽になった。
夫が残していった繭の残骸は、品質の高いシルクの糸の塊だった。
従来のシルクにはない、美しい輝きと強靭さ、軽さ、温かさ。
その出所を詮索する人はいたが、私には答えようがなかった。
一財産を手に入れ、私たちは隣町に引っ越した。
そこで新しい家を買い、娘は小学校へ入学した。
見違えるように明るくなった娘は、毎日のように友達を家に連れてくる。
私は、手作りのお菓子を焼いて、子供たちを笑顔で迎えた。

夫のことは、もはや夢のようだった。
どこかで元気に暮らしていてくれればいいと、そう願っていた。
そして、もう二度と会わないことを。

ところが秋も深まったある日。
夫は再び、私たちの前に姿を現した。
ドンドンと窓をたたく音に、外を見ると、巨大な黒い蛾がばたばたと飛んでいる。
一瞬、そのままカーテンを閉めたい欲求にかられるが、
『あなた。』
私は結局窓を開けた。
夫はうれしそうに、部屋に入ると、大きく羽を広げたまま部屋の壁にとまる。
私は複雑な気分になった。

その次の日。
夫は、部屋の床の上で、ぴくりとも動かなかった。
触れると、かさりと羽が落ちた。
夫は巨大な蛾の姿のまま、息絶えていた。
そして、部屋中いたるところ。床にも、壁にも、天井にも。
何千、何万という卵が産み付けてあった。


*蛾のなかには、雌雄同体の種族がいます。
このお話は、カフカの『変身』が元ネタです。









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