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小説 こにゃん日記

小説 こにゃん日記

ある画家の話

   『ある画家の話』


部屋の中に男が一人。
辺りには酒瓶が転がっている。いずれも安酒だ。
立てかけられたイーゼルに、何も描かれていないキャンバスが、埃をかぶって薄く変色したまま置かれてある。
部屋の隅にはいくつものキャンバスが、こちらは完成品なのか、さまざまな色が形も成さず、殴りつけるように塗りたくられている。
部屋の中には、酒の匂いと油絵の具の匂い。
それから、男の発する苦いような体臭が立ち込めている。
その中で男は、パレットナイフをテレピンオイルで磨いている。
ナイフは本来の目的に沿わないほど、砥石で何度も鋭利に砥がれ、ギラギラと鈍い光を放っている。
やがて男は、ナイフの油をボロ布で念入りに拭き、満足そうにその輝きに見入った。
男の舌が蛇のように長く突き出され、ナイフの刃をそっと舐め上げた。
たっぷりとした涎に混じって、薄桃色になった液体が床に落ちる。
わずかに残っていた油が、虹色の膜を広げる。

男は、部屋にひとつだけある窓を開けた。
寒々とした夜の空気が、澱んだ部屋の空気を押しやっていく。
男は足を投げ出して床に座り込み、窓に半ば体を乗り出すようにして怒鳴った。
『俺は死ぬぞー!!』
どこかで犬が遠吠えをあげた。
『死ぬぞ!死んでやるぞ!!』
男の部屋がある古びたアパートの下階で、うるさい!!という怒鳴り声が返った。
火がついたような赤ん坊の泣き声が沸き起こった。
男は、窓の桟に腕を投げ出すようにして、パレットナイフを押し当てた。
ぷつりと皮膚が切れ、じわじわと血が染み出してくる。
ナイフを握ったほうの手がぶるぶると震えた。
力が抜け、ナイフが畳のうえに落ちる。
男は、短く呻きながらナイフを拾い上げ、限界まで目を剥き出しにしながら、もう一度手首に押し当てた。
震えをとめようと、ナイフの柄を掴んだ腕に歯を立てる。
目を閉じたかったが、どうしても閉じることが出来ない。
そのままグイと腕を引いた。
とたんに、今度は先ほどより多くの血が、パタパタと畳の上に小さな点をいくつも作った。だが出血死するほどの量ではない。

男は血の溢れる自分の手首に唇をよせ、ちゅうちゅうと音を立てて吸い込んだ。
しょっぱくさび臭い味が、痰を含んだように粘りながら口中に広がった。
『まずい・・・。』
血は甘く芳しいものではないのか?
それとも、それは選ばれた者だけの血なのか?
手首の血は、つるつると腕を伝わっていく。
それがこそばゆくて、男はぐいとガラス窓に腕を押し付け、血をぬぐった。
血の色が夜の町を透かしている。
面白くなって、男はその色を窓一面に広げた。
押し付け、血を絞り出すようにして、窓を染めていく。
月明かりが赤く染まって、男の顔を照らした。
そしてそのとき、悪魔がやってきたのだった。

赤く染まった窓は、鏡のように男の顔を映した。
鏡の中の男は、にやにやと笑った。
男そっくりの厭らしさで。
『お前の魂と引き換えに、望みをひとつだけ叶えよう。』
鏡の中の悪魔は言った。
『金か?女か?権力か?』
金か・・・欲しいかと聞かれれば欲しいな。
生活保護で暮らす身には、楽しみと言えば、せいぜい安酒を飲むくらいだ。
それでもうるさいケースワーカーが、病院に行ってアル中の治療を受けろとか、いちいち偉そうに講釈をたれる。
女・・・女なんざうんざりだ。
馬鹿で、すぐ見かけに惑わされる奴ら。
あいつらに俺のなにが解るって言うんだ?
権力が欲しいな。
世の中の権力者どもがみんな失墜して、俺みたいな社会のダニと言われている人間が、権力を握ったら面白いと思わないか?
『では、総理大臣になるのはどうだ?』
総理大臣?そんなのはつまらない。
どうせなるなら独裁者だな。
そういえば、ヒトラーも売れない画家だった。
人を狂気に煽り立てる才能はあっても、絵を描く才能はなかったというわけだ。
『俺は・・・俺は画家としての才能が欲しい。』
悪魔との取引は済んだ。
男の魂に、どれくらいの価値があったのかは知らないが。

男は今日も、安酒を飲みながら、部屋で絵を描き続けている。
相変わらず絵は少しも売れない。
だが男は知っている。自分には才能があることを。
それが果たして、自分の命あるうちに認められるかは解らないが。
次々に仕上がっていく膨大な量の絵。
それはいずれも、男の血によって描かれていた。
あの日、悪魔はガラスの向こうから、ぐいと男の血のにじむ腕を掴み、その傷口に黄色く長い爪をねじ込んだ。
『お前の流す血の中に、絵の才能を与えよう。』
ぽとりと落ちた血は、常よりもどす黒い色をしていた。
男がキャンバスに血を垂らすと、血はまるで意思を持つがごとく、自在に流れ複雑に模様を描きながら、その白布を染めていく。

やがて、干からびたようになった男が、力尽き倒れたあとで、血に染まったキャンバスがいくつも部屋に残された。
ぬらぬらと黒光りする絵。
近隣から異臭があると苦情が起こり、ようやく男の遺体が発見される。
男の部屋から発見された、たくさんの血塗られた絵の数々は、その話題性と共に有名になった。
オークションにかけられ、高値でやり取りされ、海を越えて国外へも渡った。
贋作も作られたし、ポストカードや画集、ポスターにも使われた。
そのいずれからも、悪魔があの厭らしい笑いを浮かべながら現れた。
魂を失った男は悪魔になって、自分の絵の中に住み着いたのだった。








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