人魚姫(act.5)『人魚姫』act.5美祐の歌が聞こえる。 私の意識は、ゆっくりと浮上した。 すると、それが美祐の歌でなく、山鳥の声であることに気がつく。 私がいるのは、庭の崖のそばでも、まして海の中でもない、部屋のソファーの上だ。 おかしな夢を見たものだ。 うなじを揉み解すようにして、重い頭から眠気を払う。 だがはっきりと覚醒した私は、自分が湿っぽい寝巻きを着て、しかも靴を履いたままなのに気がついた。 思わず寝巻きの匂いをかぐ。 潮の香りがするような気がする。 でもそれはとても薄い、あるかないか、気がつかぬほどの淡い匂いだ。 それに、もし海に入ったら、湿っぽいどころか、今頃ずぶぬれになってるに違いない。 いや、問題はそんなことじゃない。 私は混乱する頭を、どうにか正常に動かそうと試みた。 私は昨日の夜、美祐と庭に出たのか? この湿っぽい寝巻きは、なるほど、濃い霧の中にいたとなれば説明がつく。 では、あの海は? いくら崖下が海とはいえ、海からここまではかなりの距離が見込める。 だからそれは夢に過ぎない。 いったい、いつの間に、自分の部屋に戻ったのか? なぜそれを覚えていないのか? 夕食にワインを飲みすぎたのだろう。 それほど飲んだとも、思わなかったけど、もともと私は酒に強いほうじゃない。 普段ワインを、飲みつけてるわけでもない。 そう考えれば、すべてが説明のつく話だった。 そこまで考えて、私は心臓が止まりそうになった。 美祐はどうしたのか? 酔った私が、ふらふらと部屋に戻ったとして、私は美祐をどうしただろう? まさか、あんな霧の夜。 足の不自由な美祐を、崖のそばに置き去りにしてきたのか? 私はがばっと跳ね起き、部屋から転がるように廊下に出た。 走るようにして、美祐の部屋の前まで来て、私は少し躊躇した。 今はまだ、夜が明けたばかりだ。 普通ならぐっすり眠っているはずだ。 私はそれでも不安から、遠慮がちにノックをコツコツとする。 返事はない。 今度はもう少し大きく、やがて激しく両手でドアを叩き出した。 ドアノブを、ガチャガチャと回しても空かない。 鍵がかかってるのだ。 『美祐!美祐!!』 私の怒鳴る声に、隣の兄の部屋のドアが開く。 『どうした?』 『兄さん、美祐が部屋に鍵を・・・。』 私はなんと説明していいかわからず、混乱したまま口走る。 『ああ・・・。』 兄は、持っていた鍵で、美祐の部屋のドアを開けた。 『美祐!』 飛び込んだ部屋に、ふわりふわりと白いものが舞っていた。 大きな窓に掛かっているカーテンだ。 美祐のベッドは、きちんとベッドメイキングされており、だれも寝た気配はなかった。 『鍵をかけておいたのに、窓から出たのか。』 兄の声に、私は我にかえった。 あわてて、窓から外に出ようとした私の腕を兄は引き止める。 『祐樹。濡れてるじゃないか。 着替えなくては風邪を引く。』 『兄さん。そんな場合じゃ。 美祐は、もしかしたら崖のところに!』 兄は顔をしかめた。 『夜中にあれについて、庭をふらふらしていたのか。』 私はもう、兄の相手をしている暇はない。 兄の腕を振り切って、庭に飛び出た。 外は夜明け前、薄明かりに、今日も霧が立ち込めている。 崖はどっちだ? 私は館を見上げ、昨日の記憶もたどり、崖のあると思われる方向に向って、全速力でかけていった。 『美祐どこだ!返事をしてくれ!!』 私の声は霧に吸い込まれる。 昨日の崖の辺りにたどり着いたが、あたりを見渡してみても美祐はいない。 私は恐る恐る、崖下を覗き込んだ。 うす青い光の中に、霧が漂う何もない空間。 いや、崖のふちに階段があるではないか。 昨日美祐が、貝殻を取り出した階段。 私は、その大人一人がやっと立てるほどの幅しかなく、手すりもない石段を、そろそろと降りていった。 『祐樹!』 私の足元がとたんに、ぐらりと傾いだ気がした。 『祐樹!』 壁についていた手が、滑り落ちる前に、力強い手が上から握りしめた。 私は片方の足を踏ん張り、握ってくれた手にすがって、もう片方の足を、崩れていく階段の端から、どうにか持ち上げる事ができた。 『祐樹。大丈夫か!』 私の手を握り締めたまま、兄は私が崖から上がってくるまで、その手を離さなかった。 『話しておかなくって悪かった。 この階段はかなり古くて、崩れやすいんだ。』 兄は青い顔をしながら言う。 『兄さん。 昨夜、僕と美祐は、ここにいたんです。 美祐はどうしたんだろう? 僕は、酔っていたみたいで覚えていないんです。』 私が震えながら言うと、兄は、 『心配するな。あれは大丈夫だ。』と言う。 『兄さん。兄さんは美祐がどこにいるのか解るんですか?』 『いや・・・。』 兄の煮えきらぬ態度に、私はますます焦燥に駆られ、狂ったように美祐の姿を求めた。 庭を駆けまわり、館の隅々まで探した。 そのまま館の敷地を出て、山の中を探そうとしだした私を、兄はなぜか強く止めた。 『こんな霧の中探し回っても、お前が山で迷うばかりだ。 心配するな。そのうちひょっこり戻ってくる。』 『そんなことどうして解るんです! そうだ、警察だ!捜索隊を出してもらわなきゃ。』 私は館に戻って電話をかけようとした。 だが、とたんに兄は私の腕を強く押さえ込む。 『駄目だ!誰も呼ぶんじゃない!』 兄の眼は血走り、赤く爛々と輝いていた。 いつも穏やかだった兄の、こんな恐ろしい顔を見るのは初めてだった。 『大丈夫だ。 いつもの事なんだ。 あれはそのうち何もなかったように帰ってくる。』 私のおびえに気がついたのか、兄は優しく私の肩を抱いた。 『いつもの事?』 『そうだ。だから部屋に鍵をかけたんだ。 しばらくはおとなしかったんだが、窓から出て行くとは・・・私も甘かったな。』 私は呆然と兄の顔を見た。 その時どこかで鳥の声がした。 ジャンル別一覧
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