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テーマ:詩&物語の或る風景(1049)
カテゴリ:中編小説
*『悲流子 上』の続きです。
奈美子はだんだんと、関係者に怒られるのとは、別の意味で怖くなってきた。 この薄暗い場所で、自分はたった一人で、裸というまったくの無防備な状態なのだ。 戻ろうかしら?奈美子は後ろを振り返った。 もう夫は湯から上がり、休憩室でビールでも飲んでいるかもしれない。 そのとき、下のほうから、ばしゃんと水音が聞こえた。 とたんに、小さく低いが、今まで聞こえなかったのが不思議なほど、がやがやと人のしゃべる声が聞こえてきた。 『まるで生き返るような心地だねえ。』 くすくすと笑い声。 『それにしても、もっと入り口をわかりやすくすりゃいいのに。』 『そりゃ。秘湯だから。』 奈美子はビクビクしてた自分が可笑しくなった。 それから、この施設のオーナーに腹がたった。 そうよ。入ってもいいなら、もっと解りやすくしてよ。 あんな入り口じゃ誰も気がつかないわ。 奈美子はようやく階段の下にたった。 そこはぽっかりと開いた、湯だけで満たされた空間だった。 黒々とした湯は、腰までの深さで少しぬるりとしている。 これが源泉なのだろうか? 『おや、若くてずいぶん綺麗な人が来たよ。』 『本当だ。』 固まるようにして入っていた数人が振り返った。 3人の年寄りと、一人年若い女が入っている。 『お邪魔します。』 なんとなく遠慮がちに肩まで湯に浸かると、3人の老婆は奈美子の傍まで、しぼんだ腕で湯を掻き分けるようにしてやってきた。 『ご旅行かい?』 老婆の一人が、黒ずんだ歯茎を見せてたずねた。 『ええ。皆さんはこの土地の方ですか?』 奈美子が問うと、老婆たちは顔を見合わせてくすくすと笑った。 『いんや。私らは下の方からだよ。』 この温泉のある山村より下の村という意味だろうか? 『この肌。若くて生気に満ちてていいねえ。』 突然、老婆の一人に腕を取られて、奈美子は思わず悲鳴を上げそうになった。 ぶよぶよとした、なんともいえない感触が肌を波立たせる。 奈美子はどうにか悲鳴を飲み込んだ。 老婆たちは、まるでミイラのように見えた。 ぽっかりとくぼんだ眼。 内側に引っ張られているような頬。 灰ピンク色の頭皮には、ちょぼちょぼと白髪が生え、筋のようになった首から骨ばかりになった肩に続く。 唯一脂肪が残っているのは、垂れ下がりしぼみきったふたつの乳房だけだ。 曖昧な作り笑いを口に上らせて、皆さんもお若いですよといえず、声を詰まらせた奈美子を見て、老婆たちは揃ってけたけたと笑いだした。 やっと離された腕を、気がつかれないように、奈美子は反対の手でそっとさすった。 湯の中でも鳥肌が立っているのが解る。 一人の老婆の声が掛かる。 『若いもんは、若いもん同士。あたしらは、そろそろ出るかえ?』 老婆たちが揃って、湯をはねながら立ち上がった。 ちりちりと音を立てて電灯の光が弱くなり、明かりがついたり消えたりを繰り返した。 ぱちぱちと瞬きを繰り返す間に、また電灯は元の明るさを取り戻し、ぼんやりと湯船を照らしだす。 そのわずかな間に、いつの間にか老婆たちの姿は消えていた。 奈美子は階段を見上げた。 ただ見えるのは湯煙ばかり、後は闇に溶け込んで何も見えない。 耳を済ませてみたが、老婆たちの話し声も、足音のひとつも聞こえてこない。 どこかほっとした気分で、奈美子は肩の力を抜いた。 ぬるぬると温かい湯が体を包み込む。 最初は違和感があったが、だんだんとそれが心地よいものに感じてくる。 『まるで母親の胎内のようだと思いませんか?』 かけられた言葉より、その声に、今度こそ奈美子は悲鳴を上げた。 残された若い女と思ったのは、細く白い肩に髪を散らした若い男だったのだ。 奈美子はパクパクと声もなく口を開け、湯の中で身を守るように自分の体に腕を回した。 『驚かせてしまいましたか?』 男は申し訳なさそうに、首をすくめ、それからほんの少し笑って見せた。 『そんなにあわてなくても、こんな濃い色の湯の中、まして明かりもこうですからね。 大丈夫。見えませんよ。』 そうは言われても、奈美子はあまりのショックに言葉も出ない。 『困ったな・・・ああ。じゃあ僕は先に出ますので、あなたはゆっくりしていらっしゃい。』 男は背を向けて立ち上がろうとした。 それに奈美子ははっと我にかえった。 『ここって女湯・・・。』 男は、背を向けたまま答える。 『いえ。ここは混浴ですよ。』 『え?でも、この階段の上は確かに。』 奈美子は男から視線をはずしながら、あたりを見渡した。 階段はひとつしかみえない。 どこかに男湯からの入り口があったのだろうか? 黒々とした岩壁に、上にあったような戸があるのかもしれない。 『ああ・・・あなたは上から来たんですね。』 男は納得したような声を出した。 『まったく。 きちんと入り口に混浴だって注意書きぐらいすべきだ。』 じゃあといって、湯から上がる気配を奈美子は思わず引き止めた。 『いえ。私が・・・上がりますから。』 『いや。僕が出ますよ。あなたはせっかく来たんだし、もう少し浸かってらっしゃい。』 優しく子供に言うような声音で言われて、奈美子は取り乱した自分が恥ずかしくなった。 落ち着いてみれば、黒々とした湯に沈んだ体は、自分自身ですらほとんど見えはしない。 見知らぬ他人に、まるで痴漢扱いするような失礼な態度をとってしまった。 『その・・・すみません。つい驚いてしまって、もう落ち着きましたので。』 男は小さく声を立てて笑った。 『やあよかった。僕も驚きましたよ。』 ざぶんと湯をはねる音をさせてから、男のふうというため息が聞こえた。 『あなたさえよければ、もう少し僕も浸からせてください。 なんせ、すっかり冷たくなってしまってね。』 ええどうぞと、奈美子は答えるしかない。 ちゃぷんちゃぷんと揺れる湯の音。 それに、じりじりという電灯の音しか聞こえなくなった。 沈黙に耐えかねて、奈美子は男に声をかけた。 『あなたも、先ほどの方たちと同じところからいらしたんですか?』 『ああ・・・あの婆さんたち。 よく下のほうから来るんですよ。僕は今回初めて連れてこられましてね。』 『その・・・ここって子宝の湯で有名なんですよね?』 くすくすと笑う声。 『なんで、婆さんたちや男の俺が来るって?』 奈美子はあわてた。また失礼なことを言ってしまったのだろうか? 『母体回帰願望かな?』 婆さんたちは知らないけどね。俺は・・・と男は答えた。 『ここは、まるで母親の胎内のようだと思いませんか?』 最初と同じ問いが奈美子にかけられた。 薄暗い岩壁に包まれた空間。 ぬるりと体を包み込む温かなお湯。 どこか甘い香りのするような湯煙。 緊張が湯に溶け出していき、代わりになにか柔らかい快感が体を押し包む。 奈美子はわずかに体をくねらせ、ええと声に出して頷いた。 『ずっとここにいたくなる。』 男は言った。 『のぼせちゃいますわ。それに赤ん坊なら生まれてこなくては。』 奈美子は、湯煙を思いきり吸い込んだ。 頭の芯まで温まっていくようで、ぼんやりと夢見心地になっていく。 『あなたなら、いい母親になれそうだな。』 男の声もぼんやりと聞こえた。 ええ・・・そう。きっといい母親になってみせる。 奈美子は黒い湯を抱きしめた。 温かな感触がぬらぬらと、毛穴の一つ一つを侵食する。 ぞくぞくと粟立つ快感に、奈美子の息が詰まる。 『僕はね。ずっといたかった。母親に望まれてないのが解っていたから。 だったらずっと、母の温かい胎内の中でそのままでいたかった。 だけどね。無理なんだよね。 僕は壊され、無理やり引きずり出された。』 姉さん・・・と男がささやいた。 いつの間にか、目の前にあった顔は、驚くほど奈美子によく似ていた。 けれども奈美子は、陶然とした視線を男に当てるばかりだ。 細い鼻梁も、ぷっくりとした唇も、大きなアーモンド形の目も同じ。 ただひとつ違ったのは。男の瞳は不思議な色をしていた。 黒々とした虹彩を、灰色の輪が囲んでいる。 『母さんが、胎内にいる姉さんと僕のうち、姉さんだけを選んだとき、僕は恨まなかったよ。そのまま母さんの中で母さんと一緒になりたかった。』 生まれてこなくては・・・甘い快感に痺れる意識の中で、もう一度奈美子はつぶやいた。 黒々とした湯が、いつの間にか這い上がるように、奈美子の肌を滑って、そのむき出しになった肩を、首を、顔を、つややかな髪の一本一本まで覆っていった。 ごぽりと奈美子の喉を湯が下った。 黄色い電灯がふっと消えた。 奈美子が、休息所になっている畳敷きの大広間に行くと、夫がすでに赤くなった顔をしてビールで粟立つコップをあげて見せた。 『ずいぶんゆっくりだったな。いいお湯だったか?』 こくりと頷いた奈美子の肩に濡れた髪が散っていた。 『まだ、髪が濡れてるじゃないか?風邪引くぞ。』 大丈夫だというように、もう一度おとなしく頷いてから、奈美子は夫に言った。 『はやく生まれるといいな。』 夫はにやりと笑って、それから、奈美子の耳元でささやいた。 『それでは奥さん。今夜から子作りに励むとしますか?』 奈美子はゆっくりと、自分の腹部を優しくなぜた。 『子宝の湯なんだから。』 『おいおい。ずいぶん気が早いなあ。』 まんざらでもない顔で夫がつぶやく。 『可愛い赤ちゃん。のぼせちゃう前に、ちゃんと出て来るのよ。』 小さく歌うように声をかけながら、奈美子はゆっくりと自分の腹を撫ぜ続ける。 その瞳の虹彩には、黒に灰色の輪がぐるりと囲むようについていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 29, 2006 08:05:43 AM
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