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テーマ:ショートショート。(573)
カテゴリ:ショート小説
部屋の中に男が一人。
辺りには酒瓶が転がっている。いずれも安酒だ。 立てかけられたイーゼルに、何も描かれていないキャンバスが、埃をかぶって薄く変色したまま置かれてある。 部屋の隅にはいくつものキャンバスが、こちらは完成品なのか、さまざまな色が形も成さず、殴りつけるように塗りたくられている。 部屋の中には、酒の匂いと油絵の具の匂い。 それから、男の発する苦いような体臭が立ち込めている。 その中で男は、パレットナイフをテレピンオイルで磨いている。 ナイフは本来の目的に沿わないほど、砥石で何度も鋭利に砥がれ、ギラギラと鈍い光を放っている。 やがて男は、ナイフの油をボロ布で念入りに拭き、満足そうにその輝きに見入った。 男の舌が蛇のように長く突き出され、ナイフの刃をそっと舐め上げた。 たっぷりとした涎に混じって、薄桃色になった液体が床に落ちる。 わずかに残っていた油が、虹色の膜を広げる。 男は、部屋にひとつだけある窓を開けた。 寒々とした夜の空気が、澱んだ部屋の空気を押しやっていく。 男は足を投げ出して床に座り込み、窓に半ば体を乗り出すようにして怒鳴った。 『俺は死ぬぞー!!』 どこかで犬が遠吠えをあげた。 『死ぬぞ!死んでやるぞ!!』 男の部屋がある古びたアパートの下階で、うるさい!!という怒鳴り声が返った。 火がついたような赤ん坊の泣き声が沸き起こった。 男は、窓の桟に腕を投げ出すようにして、パレットナイフを押し当てた。 ぷつりと皮膚が切れ、じわじわと血が染み出してくる。 ナイフを握ったほうの手がぶるぶると震えた。 力が抜け、ナイフが畳のうえに落ちる。 男は、短く呻きながらナイフを拾い上げ、限界まで目を剥き出しにしながら、もう一度手首に押し当てた。 震えをとめようと、ナイフの柄を掴んだ腕に歯を立てる。 目を閉じたかったが、どうしても閉じることが出来ない。 そのままグイと腕を引いた。 とたんに、今度は先ほどより多くの血が、パタパタと畳の上に小さな点をいくつも作った。だが出血死するほどの量ではない。 男は血の溢れる自分の手首に唇をよせ、ちゅうちゅうと音を立てて吸い込んだ。 しょっぱくさび臭い味が、痰を含んだように粘りながら口中に広がった。 『まずい・・・。』 血は甘く芳しいものではないのか? それとも、それは選ばれた者だけの血なのか? 手首の血は、つるつると腕を伝わっていく。 それがこそばゆくて、男はぐいとガラス窓に腕を押し付け、血をぬぐった。 血の色が夜の町を透かしている。 面白くなって、男はその色を窓一面に広げた。 押し付け、血を絞り出すようにして、窓を染めていく。 月明かりが赤く染まって、男の顔を照らした。 そしてそのとき、悪魔がやってきたのだった。 赤く染まった窓は、鏡のように男の顔を映した。 鏡の中の男は、にやにやと笑った。 男そっくりの厭らしさで。 『お前の魂と引き換えに、望みをひとつだけ叶えよう。』 鏡の中の悪魔は言った。 『金か?女か?権力か?』 金か・・・欲しいかと聞かれれば欲しいな。 生活保護で暮らす身には、楽しみと言えば、せいぜい安酒を飲むくらいだ。 それでもうるさいケースワーカーが、病院に行ってアル中の治療を受けろとか、いちいち偉そうに講釈をたれる。 女・・・女なんざうんざりだ。 馬鹿で、すぐ見かけに惑わされる奴ら。 あいつらに俺のなにが解るって言うんだ? 権力が欲しいな。 世の中の権力者どもがみんな失墜して、俺みたいな社会のダニと言われている人間が、権力を握ったら面白いと思わないか? 『では、総理大臣になるのはどうだ?』 総理大臣?そんなのはつまらない。 どうせなるなら独裁者だな。 そういえば、ヒトラーも売れない画家だった。 人を狂気に煽り立てる才能はあっても、絵を描く才能はなかったというわけだ。 『俺は・・・俺は画家としての才能が欲しい。』 悪魔との取引は済んだ。 男の魂に、どれくらいの価値があったのかは知らないが。 男は今日も、安酒を飲みながら、部屋で絵を描き続けている。 相変わらず絵は少しも売れない。 だが男は知っている。自分には才能があることを。 それが果たして、自分の命あるうちに認められるかは解らないが。 次々に仕上がっていく膨大な量の絵。 それはいずれも、男の血によって描かれていた。 あの日、悪魔はガラスの向こうから、ぐいと男の血のにじむ腕を掴み、その傷口に黄色く長い爪をねじ込んだ。 『お前の流す血の中に、絵の才能を与えよう。』 ぽとりと落ちた血は、常よりもどす黒い色をしていた。 男がキャンバスに血を垂らすと、血はまるで意思を持つがごとく、自在に流れ複雑に模様を描きながら、その白布を染めていく。 やがて、干からびたようになった男が、力尽き倒れたあとで、血に染まったキャンバスがいくつも部屋に残された。 ぬらぬらと黒光りする絵。 近隣から異臭があると苦情が起こり、ようやく男の遺体が発見される。 男の部屋から発見された、たくさんの血塗られた絵の数々は、その話題性と共に有名になった。 オークションにかけられ、高値でやり取りされ、海を越えて国外へも渡った。 贋作も作られたし、ポストカードや画集、ポスターにも使われた。 そのいずれからも、悪魔があの厭らしい笑いを浮かべながら現れた。 魂を失った男は悪魔になって、自分の絵の中に住み着いたのだった。 今日のお話は、ちょっと暗いです。 次回は、明るくハチャメチャなライトノベル・ファンタジーを書く予定です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 22, 2006 09:11:15 PM
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