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地上500メートルで炸裂しました。 猛烈な熱線や爆風、大量の放射線。7万4千人の生命が奪われ 7万5千人の方々が深い傷を負い、廃墟となった大地も、川も、亡骸で埋まりました。 平和公園の丘に建つ納骨堂には、9千もの名も知れない遺骨が、今なお、ひっそりと眠っています。 (長崎平和宣言より抜粋) 学徒動員で防空壕を掘る作業中に被爆したそうです。 あの日の地獄絵図が思い出されるそうです。 原爆によって1,300人の児童と先生が一瞬に命を絶たれました。 近くで保養を続けていた被爆医師・永井隆(ながいたかし)博士は、あの子らの霊を慰め 平和への足がかりにしようと、生き残った児童たちの原爆体験記「原子雲の下に生きて」 の出版を援助、その印税で「あの子らの碑」を校庭の片隅に建立しました。 さらに、博士自ら「あの子」を作詞し、長崎市議会事務局長の木野普見雄(きのふみお)さんに作曲を頼み、昭和24年11月3日に行われた碑の除幕式で、山里小学校児童の歌で披露されました。 以来、「あの子らの碑」には千羽鶴が絶えることがなく、歌の「あの子」も、碑の除幕式のあった 11月3日前後に毎年碑の前で開く平和祈念式などで、今日まで歌い継いでいます。 (歌で巡る長崎より抜粋) (昭和24年=1949、永井 隆・作詞、木野普見雄・作曲、山里小学校児童・歌) 呼んでひそかに耳すます ああ、あの子が生きていたならば テープ切ったるユニホーム ああ、あの子が生きていたならば 門に出てみる葉鶏頭 ああ、あの子が生きていたならば 世界中の人々が手を繋ぎ平和への祈りをささげたいと思います。 朝の光を浴びて posted by (C)まいママ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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