2020/09/19(土)12:12
『純情きらり』の圧倒的な視聴率。その2
このドラマの成功要因は、大きく分けると、
次の三つ。
◎ 浅野脚本のエピソード量。
◎ 宮崎あおいちゃんの存在感。
◎ 福士誠治くんの貢献。
もともと、わたしは、
前作の『風のハルカ』に対して懐疑的だった。
なぜなら、
テーマ性が曖昧じゃないか、と思えたから。
でも、
じつは「テーマ性がはっきりしない」という点では、
『純情きらり』も、『風のハルカ』も、大差ない。
「ジャズ」なのか「クラシック」なのか分からないし、
「家族」なのか「恋愛」なのかも分からない。
ヒロインの「父の水晶」が紛失してしまうところも、
風のハルカのときの「龍のウロコ」と同じだった。
でも、
それにもかかわらず、
なぜか、『純情きらり』の場合、
そのテーマ性の曖昧さや、各エピソードの連関の薄さは、
さほどの欠点に思えなかった。
いまになって思うことだけど、
「NHK朝ドラ」にとって本当に必要なものってのは、
一貫したテーマ性とか、各エピソードの整合性とかじゃなく、
とにもかくにも、
ネタやハッタリを駆使してでも、
毎日15分の枠をきちっと埋めて、
翌日の放送へと確実に継ないでいくため、
その圧倒的な「量」と「密度」なんだな、と思う。
『純情きらり』に有って、
『風のハルカ』に無かったものは、
けっきょく、何よりそれだったんだ、と気づきました。
そう考えると、
『風のハルカ』のときに、テーマの一貫性を求めようとしたわたしは、
ちょっと酷だったなあと思うし、
かえって、一貫したテーマ性なんかにこだわりすぎるのは、
半年の長いドラマ枠を、
単線的で、貧弱な内容にしてしまう恐れがあるし、
むしろ、避けるべきことなのかもしれない。
それが、「NHK朝ドラ」というドラマ枠の、
他の枠にない特殊性なんだと思う。
【浅野脚本について】
そもそも、『純情きらり』の脚本は、
以下の3つの点で有利でした。
・歴史ものだったこと。
・もともと浅野妙子は歴史ものが得意だったこと。
・分厚い原作本があったこと。
この条件があったからこそ、
『純情きらり』は、豊富なエピソードの量を確保できた。
もちろん現代劇でも、分厚い原作本などがあれば、
豊富なエピソードを確保することはできると思う。
だけど、現代劇の場合、
エピソードの量が増えて、エピどうしの繋がりが希薄になると、
物語全体が、どうしても散漫な印象になりかねない。
その点、歴史もののドラマというのは強い。
たとえ各エピソードのつながりが希薄になっても、
物語全体が、「時代のベクトル」に向かって進んでいくような、
そういう一体感を期待できるから。
『純情きらり』でも、
“戦前・戦中・戦後”という3つの時代背景のもつ一定の色彩が、
登場人物の描写と、各エピソードの雰囲気に、統一した印象を与えてた。
だから、長期の連続ドラマの場合は、
やっぱり歴史もののほうが有利なんじゃないかという気がします。
そして、
やはり『純きら』では、
エピソードを創造する浅野妙子の能力の高さが際立った。
しかも、浅野妙子は、
視聴者の関心を巧みに取り込んで、翌日の放送に強引に引っぱる、
ネタやハッタリの使い方も、相当にあざとい。
いわゆるアンチの人を引き込んだのも、かなりの部分はネタだったと思う。
きわめつけのネタは、最終回にも出てきました。
達彦の子守唄を聞いた途端、桜子の具合が悪くなってしまうという、
あの不思議なシーン。
もしや、達彦のあのビミョーな歌声が、
ヒロインの直接の「死因」になってしまうんじゃないかと、
みんなが心配して駆けつけてみると、
何事もなく、おだやかに談笑している2人。
死にそうで、なかなか死なないヒロイン。
最終回の、貴重な15分の時間の中に、
あんなドリフの“臨終コント”みたいな、
どうしようもないコテコテの場面をあえて見せることで、
浅野妙子は、
じつはこのドラマ全体が、かなりの程度「ネタドラマ」だったんだと、
最後の最後に、正直に自白してみせた。
(しかも最後にネタに使われたのは達彦。)
ネタとハッタリを織り交ぜて、
圧倒的な量を書きこなす、そういう脚本。
「NHK朝ドラ」に必要なのは、
こんなふうに、ネタやハッタリを駆使しながら、
とにかく半年分の「分量」を書きこなせる脚本家なんだろうと思うけど、
でも、
いまのドラマ界には、
「上手な脚本」を書ける人は沢山いると思うんだけど、
こんなふうに「量」を書ける人というのは、意外に少ないと思う。
そういう意味で、
今回の成功にもかかわらず、
やっぱり「NHK朝ドラ」は、今後も厳しい条件を強いられるでしょう。