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まいかのあーだこーだ 

2019.08.26
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今年の夏は、ひさしぶりに戦争についていろいろ考えました。
まあ、みんなNHKがらみですけど(笑)。

アニメ「この世界の片隅に」を鑑賞して、
映画「ひろしま」は見逃してしまいましたけど、
Nスぺを何本か見て、
昭和天皇にかんする一連の報道を見て、
それから、100分de名著では、
ロジェ・カイヨワの「戦争論」を見て考えさせられました。

…ってことで、
もはや昭和天皇とはなんの関係もありませんが、
カイヨワの「戦争論」について、いろいろ考えをめぐらせてみたいと思います。



カイヨワは、戦争のことを(バタイユ風にいえば)「蕩尽」ととらえていたのですね。

「蕩尽」というのは、おそらく「蓄積」の対義語なのだと思います。
いわば、究極の消費ですね。

蓄積がなければ、きっと蕩尽の必要もないんですよね。

自然界のエコシステムは、ぐるぐる循環しているだけなので、
蓄積もなければ、蕩尽する必要もないのだと思います。
人間の場合は、
農業生産を始めて以降、蓄積するようになったせいで、
そのぶん蕩尽する必要がでてきたのでしょう。

さらに近代の工業化によって、
人間の蕩尽は、より破壊的なものになってしまった。
それが戦争です。

ちなみにバタイユは、
セックスも、暴力も、スポーツも、祭りも、戦争も、
みんな一種の蕩尽だと考えていたようです。
つまり、過剰な生エネルギーの解放ですね。

バタイユの場合は、
そもそも太陽のエネルギーが過剰なのだから、
たとえ蓄積のない社会でも蕩尽は必要だと考えていたようです。
バタイユにとって「蕩尽」の対義語は、おそらく「贈与」なのですね。

マルクスの場合は、
「恐慌」が戦争をもたらすと考えていましたが、
恐慌というのは、やはり過剰生産(≒蓄積?)の矛盾から生じるのですね。
したがって、恐慌も、何らかの蕩尽によってしか解消されないという理屈だと思います。




今回の「100分de名著」を見ていて、
戦争には、多面的な効用があることが分かりました。

ひとつは、蓄積された生エネルギーの解放。
それから、社会的蓄積を蕩尽・破壊することによる経済循環。
さらには、個人のアイデンティティの確立にも関係があるようです。

戦争の場合、
国家への帰属意識が個人にアイデンティティを与えますけども、
それは、むしろ「帰属」というより「埋没」に近いもののようにも思えます。

戦争においても、祭りにおいても、スポーツの応援においても、
人々は集団のなかに埋没していきます。
むしろ、ほとんどの人々は、
この埋没によってアイデンティティを得るのではないでしょうか。



今回の番組を見て、
「蕩尽」には、《破壊的なもの》と《合一的なもの》がある、
ということも知りました。

アインシュタインは、
エネルギーと質量が互換できるという経済原理を発見して、
事実、核分裂でも核融合でもエネルギーは生まれるのですが、
エネルギーの蕩尽にも分裂的な方法と融合的な方法があるのでしょうか??


戦争はおおむね《破壊的》な蕩尽であり、
祭りはおおむね《合一的》な蕩尽だということですね。
セックスにも《破壊的》な面と《合一的》な面があるかもしれません。

戦争は、
対外的にみれば《破壊的》な蕩尽ですが、
国内的にみれば、むしろ《合一的》な蕩尽だといえます。
だからこそ、
ナショナリズムの熱狂を共有し、
国民としてのアイデンティティを得られるのですから。

祭りは、
一見すると《合一的》な蕩尽に見えますが、
じつは過去の戦争の記憶を反復するような祭りも結構あると思います。
たとえばヤマタノオロチを退治するような日本のお祭りなどです。
それは、たんに過去の戦争を記憶・再生するためだけでなく、
《破壊的》な蕩尽のエクスタシーを集団で反復しているのかもしれません。

戦争にしても、祭りにしても、
いわばハメを外した生エネルギーの解放なのですが、
しかしながら、まったく無軌道な蕩尽というわけでもない。

一定の同化のベクトルがあるし、解放のベクトルももっています。
集団内への同化のベクトル、そして外側への破壊のベクトルですね。
そのベクトルに従うことでしか、たぶん蕩尽することはできません。

祭りの場合にも、
ダンスのリズムのような規則性がなければ、
蕩尽することは出来ない気がします。



蕩尽は、もはや人間には不可避のものなのでしょうが、
極限的な蓄積や、極限的な蕩尽は、いずれ循環不能な破滅をもたらします。
なので、極限的な蕩尽にならないような持続的なシステムが必要とされています。

破壊的な蕩尽よりは、
まだしも合一的な蕩尽のほうが平和的かもしれないし、
マキシマムな蕩尽よりは、
まだしもミニマムな蕩尽のほうが持続的かもしれません。
集約的な蕩尽よりは、分散的な蕩尽のほうが危機が少ないかもしれない。

スポーツは、
ある意味で、戦争を代替している面があると思いますが、
現代なら、テレビゲームなども、そうした代替的な手段に見えます。
いわば「仮想的な蕩尽」ってところでしょうか。

最近では、ヴァーチャルリアリティの技術も発展してますので、
セックス、暴力、スポーツ、祭り、戦争といったあらゆる蕩尽が、
すべてヴァーチャルな空間のなかで計画的に処理できるのかもしれません。

ただ、どうしても、蕩尽というのは「無駄」な印象があります。
無駄に消費するからこその蕩尽なのでしょうが、
せっかくなら、
そのエネルギーをもっと有効活用できないものかなと思ってしまいます。
ましてヴァーチャルな空間での蕩尽は、あまりに無意味に思えます。

あらゆる物質とエネルギーの蕩尽が、
そのまま生産や贈与に変換されるシステムだったらいいんですけども…。



…また来年の夏に考えます。







最終更新日  2019.08.26 00:00:19

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