テーマ:政治について(20499)
カテゴリ:政治
ちょっと前までは、
引きこもりの人間をむりやり外に連れ出して、 わざわざ夜型人間を昼型人間に矯正させることが、 いわゆる「社会性」を身につけさせるために必要なことだ、 と信じられていましたね。 つまり、 他人と協調して快活に生活できるような、 そんな体育会的な人間像こそが「模範的」と信じられていたのです。 外に出て、昼に活動し、 多くの他人と接するような生活態度こそが、 真に「社会的」であり「正常な姿」だと考えられていたのですね。 しかし、考えてみれば、 わざわざ満員電車にのせて朝礼に参加させるなどというのは、 いかにも無意味で馬鹿げたアナクロニズムなのだし、 たんなる暴力的な強制だったと言ってもいい。 むしろ、 日本社会に多くの引きこもりが存在しているのならば、 その引きこもりの人たちを、 引きこもりのままに活用していくほうが、はるかに合理的なのです。 もともと体育会系の脳筋バカなんぞよりも、 引きこもり人間のほうが、はるかに知的で創造性が高いのだから。 もとはといえば、 大学のような高等教育の現場で、 わざわざ「体育会系の人材」を育てるという発想じたいが、 大きな本末転倒であり、大きな過りだったわけですね。 労働者を育成するのは、あくまでも小中学校の義務教育の役割です。 大学が「体育会系の企業奴隷」なんぞを育てていたら、 いずれ国家が滅んでいくに決まっている。 シリコンバレーはおろか、中国にすら太刀打ちできません。 本来、大学とは、創造的な起業家を育成すべき場所です。 ◇ テレワークやオンライン学習が普及するにつれて、 やがて引きこもりのほうが社会のデフォルトになっていきます。 こうした引きこもりの人々の仕事を、 オンライン上で自在に取引できるような、 公共的なプラットフォームを国内に構築することができれば、 そこに海外の秀れた人材を引き込むことにもなるでしょうし、 それ自体が、大きな産業に発展する可能性があります。 こうしたプラットフォームは、日本の風土にこそ適している。 もともと日本の引きこもりの中には、 いわゆる同人としてコミケなどで活動してきたような、 作家、詩人、音楽家、漫画家、アニメーターなどが大量に存在しています。 そうした人々は、潜在的に何がしかのプラットフォームを必要としている。 ソフトパワーは有り余るほど国内に潜在しているのに、 それを産業化していくためのハードインフラが決定的に欠如しているのです。 その際に「引きこもり=お一人様」という観念は捨てるべきです。 オンライン上のプラットフォームを介せば、 引きこもりの人々は、じつはたがいに協働することができるからです。 たとえば引きこもりの音楽家は、ひとりで作品をつくるのではなく、 作曲家と作詞家と演奏者の分担によって作品を共作できるのです。 プラットフォームとは、 たんに需要と供給を結びつける場であるのみならず、 協働する個々人を結びつける場でもあるということです。 ◇ 引きこもりの人々をわざわざ外へ連れ出すのではなく、 そのソフトパワーを産業化していくためのシステム作りこそが急がれています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.04.02 09:40:05
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