カテゴリ:北斎と葛飾応為の画風。
NHKの「ライジング若冲 天才かく覚醒せり」を見ました。
2017年の「眩~北斎の娘」のときは、 朝井まかての原作があったけれど、 今回のドラマに原作はなく、源孝志の作・演出ってことです。 空から舞い降りてくる「黒い雁」を、 赤や緑のハート模様の「白い鳳凰」が受け入れる対幅に重ねて、 若冲と大典とのBL風の物語を描き出す、という趣向でした。 ◇ そのボーイズラブの真偽はともかく、 売茶翁の営む茶店(オープンカフェ)が、 若冲や大典だけでなく、 円山応挙や池大雅らも集うような「芸術サロン」だった、 という事実はかなり興味深いものだし、 今後、国内外で、 この上方の芸術サロンの存在に関心が高まって、 江戸時代の芸術についての研究が、 さらに進んでいくことになるかもしれませんよね。 ◇ ただ、今回のドラマは、 ボーイズラブ以外の部分については、 さほど踏み込んだ歴史的解釈はしておらず、 わりと無難に史実をまとめただけ、という感じもします。 彼らの交流が、 どんなふうに影響し合い、 それぞれの人生や作品に何をもたらしたのか。 その部分の突っ込みには、ちょっと甘さを感じました。 とくに疑問を感じたのは、 「仏」と「神」が混在していたことです。 つまり、仏教と道教との関係が曖昧でした。 ◇ 大典は、みずからが禅の境地を得るために、 若冲に対して「仏を描いてほしい」と懇願します。 しかし、若冲が生き物の姿に見出したものは「神気」でした。 これは同じものでしょうか? 鳥や蛙、魚や虫には表情がないから、 喜怒哀楽もない、と人間は勝手に思ってる。 しかし生き物である以上、欲も愛もある。 それを外界に「気」として放ってる。 この発想は、あきらかに道教的です。 いわゆる神仙思想、あるいは老荘思想です。 そもそも「若冲」の名の由来にもなった "大盈は冲しきが若きも 其の用は窮まらず" というのも、老子の言葉でした。 ◇ このドラマは、 禅僧である大典との関係を軸にしながら、 最後に「釈迦三尊」を中心に据えた「動植綵絵」を、 相国寺に寄進するところまでを描いています。 その結果、 おもに仏教(禅)とのかかわりが、 クローズアップされているようにも見えます。 しかし、 若冲の絵の本質は、仏教ではなく、 むしろ道教のほうに近い気がします。 ちなみに「動植綵絵」は、 明治の廃仏毀釈のときに皇室へ移り、 寺には「釈迦三尊図」だけが残ったようですが、 そもそも「釈迦三尊図」というのは、 若冲の大作を寺に置くための建前として、 「動植綵絵」に添えられただけのものにすぎない、 という気がしないでもありません。 作品のメインは、 じつは「釈迦三尊図」ではなく、 あくまで「動植綵絵」のほうではないでしょうか? そして、それは、 仏教的な「理知」の世界ではなく、 道教的な「生命」の世界だと思うのです。 ◇ 売茶翁は、 それこそ道教の仙人みたいな恰好をしていましたが、 まさに彼の煎茶こそが、 老荘思想の精神を如実に示していましたし、 それは同時に、 茶の湯(=禅)に対する批判でもありました。 売茶翁は、 若冲の「動植綵絵」を目にしたとき、 「あんたの絵の腕はもはや神の領域や」 と言いました。しかし、同時に、 「こういう絵は仏のためにこそ描かれるべきや」 とも言いました。 ここでも「神」と「仏」が混在しています。 これらは同じことなのでしょうか? それとも、彼らは神仏の融合を目指していたのでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.02.08 21:39:42
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