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まいかのあーだこーだ

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2021.01.06
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NHKの「ライジング若冲 天才かく覚醒せり」を見ました。

2017年の「眩~北斎の娘」のときは、
朝井まかての原作があったけれど、
今回のドラマに原作はなく、源孝志の作・演出ってことです。

空から舞い降りてくる「黒い雁」を、
赤や緑のハート模様の「白い鳳凰」が受け入れる対幅に重ねて、
若冲と大典とのBL風の物語を描き出す、という趣向でした。



そのボーイズラブの真偽はともかく、

売茶翁の営む茶店(オープンカフェ)が、
若冲や大典だけでなく、
円山応挙や池大雅らも集うような「芸術サロン」だった、
という事実はかなり興味深いものだし、

今後、国内外で、
この上方の芸術サロンの存在に関心が高まって、
江戸時代の芸術についての研究が、
さらに進んでいくことになるかもしれませんよね。



ただ、今回のドラマは、
ボーイズラブ以外の部分については、
さほど踏み込んだ歴史的解釈はしておらず、
わりと無難に史実をまとめただけ、という感じもします。

彼らの交流が、
どんなふうに影響し合い、
それぞれの人生や作品に何をもたらしたのか。
その部分の突っ込みには、ちょっと甘さを感じました。

とくに疑問を感じたのは、
「仏」「神」が混在していたことです。
つまり、仏教と道教との関係が曖昧でした。



大典は、みずからが禅の境地を得るために、
若冲に対して「を描いてほしい」と懇願します。
しかし、若冲が生き物の姿に見出したものは「気」でした。

これは同じものでしょうか?

鳥や蛙、魚や虫には表情がないから、
喜怒哀楽もない、と人間は勝手に思ってる。
しかし生き物である以上、欲も愛もある。
それを外界に「気」として放ってる。


この発想は、あきらかに道教的です。
いわゆる神仙思想、あるいは老荘思想です。

そもそも「若冲」の名の由来にもなった
"大盈は冲しきが若きも 其の用は窮まらず"
というのも、老子の言葉でした。



このドラマは、
禅僧である大典との関係を軸にしながら、
最後に「釈迦三尊」を中心に据えた「動植綵絵」を、
相国寺に寄進するところまでを描いています。

その結果、
おもに仏教(禅)とのかかわりが、
クローズアップされているようにも見えます。

しかし、
若冲の絵の本質は、仏教ではなく、
むしろ道教のほうに近い気がします。

ちなみに「動植綵絵」は、
明治の廃仏毀釈のときに皇室へ移り、
寺には「釈迦三尊図」だけが残ったようですが、

そもそも「釈迦三尊図」というのは、
若冲の大作を寺に置くための建前として、
「動植綵絵」に添えられただけのものにすぎない、
という気がしないでもありません。

作品のメインは、
じつは「釈迦三尊図」ではなく、
あくまで「動植綵絵」のほうではないでしょうか?

そして、それは、
仏教的な「理知」の世界ではなく、
道教的な「生命」の世界だと思うのです。



売茶翁は、
それこそ道教の仙人みたいな恰好をしていましたが、

まさに彼の煎茶こそが、
老荘思想の精神を如実に示していましたし、
それは同時に、
茶の湯(=禅)に対する批判でもありました。

売茶翁は、
若冲の「動植綵絵」を目にしたとき、
「あんたの絵の腕はもはやの領域や」
と言いました。しかし、同時に、
「こういう絵はのためにこそ描かれるべきや」
とも言いました。

ここでも「神」「仏」が混在しています。
これらは同じことなのでしょうか?

それとも、彼らは神仏の融合を目指していたのでしょうか?




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最終更新日  2021.02.08 21:39:42


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