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まいかのあーだこーだ

2021.07.22
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カテゴリ:政治
小山田圭吾が、
25年も前の発言や、35年も前の行為について、
世界中から非難を浴びているのは、
いわば#MeToo運動と同様の現象であり、

わたしは、それは当然の報いだと思う。



ただ、私自身は、
彼の「いじめ自慢」の件をけっこう昔から知っていて、
ろくでもない奴だなア…と思っていたし、
本人が反省しているかどうかも知るよしはなかったけど、

だからといって、
とくにコーネリアスの作品を忌避することはなく、
ことさらファンというほどではないけれど、
わりと面白く聴いていた、という面もある。

それは、たぶん、
今後も変わらないし、
それはべつに小山田圭吾の人間性を支持するということではない。

たとえ作者が鬼畜のような人間だとしても、
その音楽を聴くこと自体は罪ではない。



たとえば、
フィル・スペクターは人殺しでしたが、

わたしも、たまには、
彼の音楽が聴きたくなることがあって、
その音楽を聴いているときには、
フィル・スペクターが人殺しだったことは意識しません。

若い世代の人ならば、
それを「呪われた音楽」とも思うかもしれませんが、
もはや昭和世代の人間にとっては、
耳馴染みの音楽であって、さほどの気にもなりません。

おそらくロック好きのなかには、
毎年クリスマスに人殺しの音楽を聴いてる人もいるでしょう(笑)。
※わたしの場合はそれはない。

かりに、わたしが、
フィル・スペクターの音楽を楽しむことがあるからといって、
その人間性を支持するつもりはまったくないし、

むしろ人殺しが断罪されるのは、ごく当然の話であって、
そのことについては、何らの矛盾も疑問も感じません。



世間には、
「鬼畜のような人間の音楽など聴くべきでない」
と考える人もいるようだし、

逆に、
「優れた才能なのだから過去の罪も許すべきだ」
と考える人もいるようですが、


わたしはそのどちらにも与しない。


なぜ、
才能への評価と、人間性への評価を、
わざわざ連動させる必要があるのか。
むしろ、そのことのほうが、わたしには分からない。



たとえ人間的に鬼畜同然だとしても、
作品が素晴らしいということはあり得るし、
その作品を鑑賞することが罪なわけでもない。

逆に、
いくら作品が素晴らしくても、
外道のような人間ならば、断罪されるのもまた当然の話で、
それは、まったく別次元のことです。

作品への評価と、人間性への評価を、
あくまで両立させなければ気が済まないという考えは、
幼稚でナイーヴで短絡的というだけでなく、
ほとんど滑稽であり、あるいは異様だとさえ思います。



コーネリアスについては、

公的なイベントや、
公共放送であるNHKなどでの活動は、
制限されて仕方のないことだろうと感じますし、

過去の非道な行為とその自慢についても、
この先ずっと非難が絶えることはなかろうし、
その非難を甘んじて受けるのが当然だと思うけれど、

かといって、
作品の制作や発表の場が失われるわけでもなく、
それを聴く人も、わたしを含めて、いくらでもいるでしょう。

彼の音楽を聴くことは、
その過去の鬼畜行為を容認することとは全く別次元の話です。

かりに実刑を受けるほどの犯罪人であったとしても、
作品を発表することは十分に可能なのだし、
一般の人がそれを鑑賞することもできます。

そのことに何ら倫理的な問題はありません。



わたしは、
ベルトルッチの映画が大好きだけれど、

彼がどんな人間だったかということはとくに考えないし、
もしかすると、ろくでもない奴だったのかもしれない、
という見方を排除しようとも思わない。

かりにそうだったとしても、
好きな映画についての評価まで変えようとは思わないし、
それは今後も変わりませんし、
そのことについて疑問をもつ必要すらも感じません。

ロマン・ポランスキーの映画や、
ウディ・アレンの映画だって、今後も見たいと思うけれど、
そのことで彼らの人間性までをも容認しようとは思いません。


まあ、

荒木経惟の写真にかんしては、もともと好きでもないので、
とくに見たいとは思いませんが(笑)。









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最終更新日  2021.07.22 08:20:05


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