2023/03/10(金)13:04
映画「エッシャー~視覚の魔術師」の感想。
GYAOの無料動画で、
ドキュメンタリー映画「エッシャー~視覚の魔術師」を観ました。
原題の《Journey Into Infinity》を直訳すると、
さしずめ「無限への旅」あるいは「無限への探究」でしょうか。
実際、エッシャー自身が探究したのは、
けっして「だまし絵」とか「視覚的トリック」とかではなく、
あくまで「無限」だったわけなので、やはり原題のほうが正しい。
◇
例のダグラス・ホフスタッターの、
『ゲーデル、エッシャー、バッハ』は全然読んでませんが!
その書名の印象だけは無駄に強いので、
エッシャーというと、
つい反射的にゲーデルとバッハのことを連想しますw
この映画にも、
バッハの話はちゃんと出てきました。
エッシャー自身も、バッハを好んでいたようです。
一方、
ゲーデルの話は出てきませんでしたが、
エッシャーは、電話をかけてきたグラハム・ナッシュに、
自身のことを「芸術家ではなく数学者だ」と言ったそうです。
◇
とはいえ、
子供のころは数学が嫌いだったらしく、
親の意向に反して、建築の道にも進まなかったのですね。
エッシャーの父親は、
明治日本にお雇い外国人として招かれたほどの、
かなり高名な土木工学者だったらしいから、
優秀な理系の血を受け継いでいるのは明らかだし、
結果としては、
きわめて数学的・建築的な発想で、
独自の美術表現に取り組むことになったのだけど、
逆にいうと、本人の言葉どおり、
「科学者と名乗るには愚かすぎるが、芸術家でもない」
みたいな中途半端な天賦であったがゆえに、
「数学と芸術の間を漂う」以外になかったのかもしれません…。
美術大国のオランダに生まれたことも、
彼の立場をどっちつかずにしてしまった気がする。
フランドル美術を生んだ風土と文化が身近にあったのは大きい。
◇
彼は、
内向的なオランダ人であると同時に、
いかにも理系的な気質だったと思いますが、
他人との面会や手紙などを嫌い、
貨物船の上での孤独な海上生活を好んだり、
版画の反復的な印刷に没頭するような偏執的な性向も見られます。
しかし、その反面、
イタリアやスペインのような南欧の風土を愛したり、
船上から見る地中海や空の青を眺めては、
その自然から美的なインスピレーションを得たり、
さらにはムーア人の幾何学…
すなわちアルハンブラのアラベスク模様に惹かれたりした。
◇
彼の「無限の反復」というコンセプトは、
数学や建築などの理論から得られたのではなく、
自然からのインスピレーションで得られた感じです。
実際、
そこにもフラクタルのような数学的な構造があるし、
自然のなかの時間や空間は反復的になっているといえます。
強いて数学でいえば、
彼の関心にいちばん近かったのは「結晶学」だったようで、
それがいわゆる「平面の正則分割」の手法に繋がっていく。
さらに、
コクセターの「反転変換」の話なども出てきましたが、
エッシャーは、それを理論的に把握したのではありません。
むしろ感覚的に「無限」の表現方法を模索し、
やがて有限な平面のなかに「無限」をもちこむことに成功。
そこに実現したのは、
いわば「全世界」や「終わりなき循環」を内包させる表現でした。
◇
エッシャーは、
自身の作品がサイケデリックアートとして消費されることに、
かなり嫌悪感を抱いていたらしい。
でも、わたしが思うに、
有限のなかに無限をもちこむ発想は、
やっぱりサイケデリックの価値観にも通じ合う部分があって、
ロックの時代のヒッピーにとっては、
おそらく彼のアートも、瞑想やドラッグと同様に、
内的な小宇宙を実感するための一つの手段だったのでしょう。
◇
ちなみにエッシャーの表現は、
従来の西欧美術の遠近法をあきらかに否定しています。
すなわち、
〈前景〉と〈後景〉の主従関係を否定し、
鳥の背景を鳥にしたり、虫の背景を虫にしたりして、
すべての細部に同等の価値を与える表現になっている。
まさに「平面の正則分割」などが、その典型です。
これって、
けっこうキュビズムに近いと思うのですが、
なぜか彼自身は、
キュビズムにもシュルレアリズムにも接近しなかった。
それどころか、
あらゆる美術界の"潮流"とは無縁だったようです。
その立ち位置もまた、
冒頭の「芸術家ではなく数学者だ」という発言に結びつくのでしょう。
◇
もともと、彼の表現の原点は、
西洋絵画というよりもグラフィックアートだったし、
彼が実際に選択したのは、
反復的な複写の可能な「版画」という手法だったし、
もっといえば、
エッシャーのような表現は、
むしろアニメーションやCGにこそ親和的だったのですね。